プーチン大統領はウクライナ侵攻時、「核のタブー」を無視して核兵器の使用をほのめかした。冷戦終結以後の世界情勢の変化の中で、核のタブーはすでに力を失っていた。核兵器が今後、政治的にどのような価値を持つかは、ウクライナ戦争の勝敗にかかっている。

プーチン大統領は核の使用を示唆した(写真=Russian Pool/ロイターTV/アフロ)
プーチン大統領は核の使用を示唆した(写真=Russian Pool/ロイターTV/アフロ)

 米ブラウン大学の政治学者ニーナ・タネンウォルド氏は1999年、軍の司令官や政治家、戦略家の間に見られる「核のタブー」を分析した論文を発表した。このタブーは、単なる不快感や良心の呵責(かしゃく)ではなく、実際に世界に重要な変化をもたらしてきたと同氏は論じた。

 米国が広島と長崎を壊滅させて以降、長く核戦争が起きなかったのは、抑止力の効果ばかりでなく、一線を越えて核兵器を用いることは本質的に過ちだという感覚が育っていたことも要因だったと同氏は言う。

 40~50年代のような核による脅しは、その後ほぼ見られない。タブーが強まるにつれ、核保有を求めるのは野蛮で、保有している核の使用を口に出さずにいることが紳士的だということになった。

 そこに、ある種の偽善があるとしても(実際、偽善はあったのだが)、それはフランスの箴言(しんげん)家ラ・ロシュフコーによる偽善の定義「悪徳が美徳に捧げる敬意」の一例だったと言ってよい。

 そのような機微は、もはや存在しない。ロシア国営テレビ「ロシア1」の看板ニュース司会者ドミトリー・キセリョフ氏は5月1日、ボリス・ジョンソン英首相に向けて「たった1発で英国は消え去る」と警告し、念のためにと、分かりやすく具体例を挙げてみせた。

 一つは大陸間弾道ミサイル(ICBM)「サルマト」だ。英国に向け飛んでいく航跡が画面に線で示された。もう一つは核魚雷「ポセイドン」で、放射能を含む津波を引き起こす。その津波は「英諸島をなめ尽くし、残るのは荒れ果てた放射能の砂漠だ」と同氏はまくし立てた。

 この番組だけではない。「ロシアの人々は、これを大げさに語りたがる。数日おきにロシアの高官の誰かが必ず、核兵器使用に言及する」とタネンウォルド氏は語る。核使用への支持は、テレビ番組の誇張を超えてロシア社会に深く浸透している。

 ジュネーブの国連代表部に勤務していたロシアの外交官、ボリス・ボンダレフ氏が5月23日、自国のウクライナ侵攻を理由に辞任した。同氏は米ニューヨーク・タイムズに、同僚の軍備管理の専門家までもが核戦争について喜々として話していることに何よりも困惑したと語った。

 「彼らは、米国のどこかの村に核を落とせば、米国民は即座に恐れをなし、ひざまずいて慈悲を乞うと思っている。そう考えているロシア国民が多いのだ。それが国民からロシア政府に伝わっていくことが恐ろしい」(ボンダレフ氏)

綻びていた戦後体制

 45年以降、核兵器が敵や都市に使われずに済んだのは、規範、条約、相互確証、誇示、勧告、制度、恐怖、タブーといった様々な要素が混じり合った結果だった。だが、この安全網はかなり綻びていたようだ。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は侵攻を開始した2月24日、ロシアの邪魔をする第三国は「過去に経験したことのない結果」に見舞われる危険を冒すと警告した。

 それ以前でさえ、この綻びは既に進んでいた。軍備管理の面で言うと、米ロ間の協定はほぼすべて失効している。ロシアは、残る合意の対象とならないポセイドンなどを開発してきた。中国は核兵器の保有量を急速に拡大した。核拡散防止の面では、北朝鮮は国際社会から何十年も圧力を受けてきたにもかかわらず核兵器を開発し、さらなる性能向上と射程の延伸を続けている。

 過去10年で唯一の注目すべき核拡散防止協定は、イランの核開発計画を制限し、見返りとして制裁を解除することで合意された「包括的共同行動計画(JCPOA)」だ。だがイランは核開発を続け、核保有にかつてなく近づいている。この合意も今や風前のともしびだ。

 核拡散防止条約(NPT)の締約国で核を保有する米英中仏ロ各国に、軍縮への動きは見られない。それが、この体制の正当性を傷つけてきた。

 ロシアのウクライナ侵攻は、この綻びた体制の穴をさらに広げた。ロシアが侵略戦争を続け、北大西洋条約機構(NATO)加盟国がウクライナに提供する反撃用武器の性能を上げていくと、ふとしたことからロシア対NATOの戦争となり、いずれ核の一線を越えてしまう危険が、小さいながらも現実的に存在する。