米国と英国を中心に仕事を辞める人が急増し、「大退職時代」が来るとの予測が盛んに語られる。パンデミックをきっかけに、仕事に対する労働者の考え方が大きく変化したからだという。しかし、その証拠はあるのか。多くの先進国ではその徴候は見られず、米英の動向も普通に説明できる。

 1919年、スペイン風邪大流行の影響が収まり始めた頃、米シアトルの労働者たちは労働環境の改善を訴えた。多くの者は長時間労働や低賃金にうんざりしていたのだ。とりわけ高インフレ期の状況はひどかった。

 造船所の労働者がストライキに踏み切ると、ほかの産業の労働者たちも連帯してそれに続いた。新聞は、機械工や消防士、塗装工が仕事を辞めているとの記事であふれた。シアトルの出来事は全米に、さらには世界の多くの先進国に飛び火し、労働争議を引き起こした。経営者らは、下層階級が仕事を忌避する反資本主義に転じたのではと不安を抱いた。

 そのシアトルが再び、労使関係の大変動の震源地になろうとしているようだ。大工の労働組合が2021年10月、賃金と労働条件の改善を求め数週間にわたるストを決行した。

 ホテルや小売店では人手不足が続いている。従業員の離職を恐れる地元のIT(情報技術)企業は20年以降、平均給与を5%近く引き上げた。米マイクロソフトは今年、世界の従業員の46%が「大きな方針転換、つまり転職」を考えていると述べた。

 シアトルはどうやら、米テキサスA&M大学のアンソニー・クロッツ氏が言う「大退職(great resignation)」の実例となっているようだ。この印象的な表現はたちまちビジネス界の流行語となり、企業の業績発表やパーティーの場で盛んに使われるようになった。

当てはまるのは米英だけ

 この言葉は、ネット上でも大波を引き起こした。ソーシャルメディア・サイト「レディット」の「アンチワーク」掲示板には、意地汚い上司からの要求を長文で批判する投稿があふれている。この掲示板に寄せられる1日当たりの投稿数は、最近ではレディットの「ウォールストリートベッツ」掲示板より多い。こちらは今年、株式市場に大きな影響を与えた掲示板だ。

 大退職という言葉は様々な意味で使われる。その本質は、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)で文化の変動が起こり、自分にとって大切なことは何かを労働者が考え直している、と主張するものだ。

 ステータスの低い労働者はもはや低賃金や悪条件を我慢しない。ホワイトカラーも長時間労働をばかげたことと考えるようになる。怠惰になった人もいれば、自分にはもっと権利があると思うようになった人もいる。新しいことに挑戦したくなった人や、簡素な暮らしに喜びを見いだし、お金にこだわらなくなった人もいる。これがやがて退職の大波を引き起こすと考えられる、というのだ。

 1つだけ問題がある。この説には裏づけとなるはっきりとした証拠がほとんどないことだ。

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