トランスジェンダーの子どもに使用される性適合治療薬の使用を禁止する法律が米アーカンソー州で可決された。バイデン政権が掲げる性的少数者の権利拡大に反する動きは、保守派で広がっており文化戦争の様相を呈する。一方で、治療薬の安易な使用に伴う健康被害や精神疾患に適切な治療が施されないといった問題も起こっている。

性適合治療薬の使用を禁じる法律を拒否したハッチンソン知事(写真=AP/アフロ)

 米国では性同一性障害のための治療薬の使用が急速に広がっている。生物学的に判断される性と自身の性認識が一致しない子どもたちに、二次性徴抑制剤や性ホルモン剤の処方を通じて性適合治療を施す医師が増加している。世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会(WPATH)によれば、子どもの治療に当たる内分泌代謝内科を専門とする医師が10人以上いる州もある。だがアーカンソー州では1人しかいない。

 4月、同州では18歳以下の子どもにこれらの治療薬を処方することを禁じる法律が可決された。トランスジェンダーの権利を擁護する活動を先頭に立って積極的に進めている米人権団体「全米市民自由連合(ACLU)」が同法案の差し止めに成功しない限り、「実験から思春期の若者を救う」ことを目的に、この法案は今年夏に施行されるだろう。

 ACLUによれば、アーカンソー州は過去数カ月間にこの種の法律を導入した16州のうちの1つだ。トランスジェンダーの少女が女性のスポーツチームでプレーすることを禁じる法律を導入している州はさらに多い。アーカンソー州も同様の法律を3月に成立させたところだ。伝統的な男女の役割分担を重視する保守派の多い南部諸州の立法当局は、バイデン政権が表明する性的少数者の権利拡大を推進する考えを押し返そうとしている。

 バイデン政権は、トランスジェンダーの人々は自分が認識する性で認識されるべき(つまり、トランスジェンダーの女性は女性専用の空間にアクセスを許されるべき)だし、トランスジェンダーの子どもは二次性徴抑制剤や性ホルモン剤を用いた性適合治療を受ける権利を有するとの考えを容認している。

知事の拒否権を覆した議会

 立法当局が性適合治療薬の子供への使用を一律に禁じることは間違いだと、アーカンソー州知事のエイサ・ハッチンソン氏(共和党)は主張し、同法案に拒否権を行使した。だがその後、アーカンソー州の上下院はハッチンソン知事の拒否権を覆した。

 ハッチンソン知事によれば、このような法律は「医師や両親が若者に関する極めて複雑でセンシティブな問題に立ち向かうことを妨害する法規制の新たなスタンダード」を設けることにつながるという。同知事はまた、同法は米国の保守とリベラルを引き裂く「文化戦争」の産物だと話す。同氏の主張の裏付けとなっているのが、「アーカンソー州では若者が性転換手術を受けている」などと、立法当局が騒ぎ立てている点だ(そのような事実はない)。

 一方、アーカンソー州の医師は、同法が及ぼす幅広い影響を危惧している。同州最初のトランスジェンダークリニックの共同創立者であるジャネット・キャセイ博士は「同州の保守的な政策のせいで、若い医師たちがアーカンソー州で働きたがらなくなる点を懸念している」と話す。同クリニックはアーカンソー医科大学に設置されている。

 だが同法を、政治的なご都合主義の産物と片付けてしまうのは早急だろう。これは、子どもへの二次性徴抑制剤や性ホルモン剤の使用に対する懸念の高まりに対する一つの答えでもあるのだ。二次性徴抑制剤は、胸の膨らみや顔ひげなど、自らの二次性徴の発現に絶望を抱く9歳ごろの子どもに処方されるが、もともと二次性徴を抑える目的で認可されたものではない。臨床試験も行われていない。骨の成長に悪影響を及ぼす可能性や脳の発達を阻害する恐れがあることを示す調査もある。

続きを読む 2/2 使用制限策を導入した英国
日経ビジネス2021年5月10日号 80~81ページより目次

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