全3346文字

中国では、印章によって、企業が発する公式文書の正統性を担保する。この伝統システムが、欧米企業とのトラブルの源になっている。英アームの中国合弁会社では、CEOを解任する取締役会の決定が、社印を押した文書によって取り消された。

中国では何千年にもわたって印章が使われてきた(写真=アフロ)

 英半導体設計大手のアームは中国事業の支配権を取り戻そうと、数カ月の月日を費やしている。中国に古代から伝わる「印章」制度が、深圳に本拠を置く合弁会社アーム・チャイナCEO(最高経営責任者)の解任を阻んでいるからだ。

 中国では、伝統的に用いられてきた会社の印章、すなわち社印が、公式文書に正統性を与える唯一の手段となっている。西欧諸国で用いられる署名は、中国では重きをなさない。

 何千年にもわたって継承されてきた印章制度は基本的に、誰であれ社印を持つ者に、企業が公式に実行するあらゆる措置を執り行う権限を与える。その対象は従業員への給与支払いから経営陣の解雇、銀行口座の開設、買収にまで至る。

 社印制度が正しく機能すれば、従業員による不正行為を防ぐことができる。だが、社印が不適切な人間の手に渡ったり、盗まれたり、あるいは支配権をめぐる争いが起きたりすれば、企業の運営が何カ月にわたってまひする事態に陥りかねない。

 アームにとって、今回の騒動は極めて厄介な経験だ。中国事業のトップ解任に失敗したことが世間に知られるところとなり、いっそうきまりの悪い事態となっている。

親会社の決定しのぐ大きな力

 米デラウェア州で開かれているある裁判でも、社印をめぐる疑惑が重要な役割を果たしている。韓国の資産運用大手ミレーアセット・グローバル・インベストメンツが5月、高級ホテル群を中国の安邦保険集団から58億ドル(約6200億円)で取得する合意を破棄したと明らかにしたのだ(編集部注:この経緯は後述)。

 「我々はこれを企業ハイジャックと呼んでいる」。法律事務所ディザン・シラで地区マネジャー代理を務めるリカルド・ベヌッシ氏はこう語る。同氏によれば、正式に認められていないにもかかわらず従業員がこれほど強大な権限を行使できた事例は欧米ではほとんどみられない

 「外国企業は初めは、社印が重大な問題を引き起こす恐れがあるなど考えもしない。それ故、我々がなぜ、(社印の重要性を)これほどまで強調するのか理解しない。しかし社印に関わる恐ろしい話をすると、彼らはようやく理解し始める」

 ムーア(MSアドバイザリー)でマネージングディレクターを務めるラウル・シュワイハー氏は「社印が不適切な人の手に渡らないようにすることが、極めて重要だ」と指摘する。同社は、中国事業の展開について海外企業にアドバイスしたり、海外企業の社印を保管するサービスを提供したりしている。

 2016年にソフトバンク傘下に入ったアームは今年6月、中国合弁企業のCEO、呉雄昂(アレン・ウー)氏を解任した。事情を直接知る2人の関係者によれば、電子メールで送られた解雇通知は以下のことを指摘していた。呉雄昂氏が立ち上げた投資ファンドは、アーム側が保有する投資ファンドと直接競合するもので、明白な利益相反だ。

 だがアームが呉雄昂氏の解任を発表すると、同氏は自身が解任されたことを否定し、それを告知する声明を発信した。この声明に社印が押されていたため、呉雄昂氏を解任するアームの手続きが取り消されるとともに、アーム・チャイナを引き続き経営する法的根拠を呉雄昂氏に与えることとなった。

 この出来事は、外国企業が中国企業と合弁事業を運営する上での課題をまざまざと浮き彫りにしている。

日経ビジネス2020年7月13日号 94~95ページより目次