少子化対策は企業にとって無縁の課題でも、触れてはならないタブーでもない。女性でも男性でも子どもを持ちやすい職場作りは、企業の成長に直結する。どうすれば働き手も企業も恩恵を受けるのか。先進企業の取り組みに迫る。

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 オフィスに突然、保育園から電話がかかってくる。「お子さんが発熱しました。今すぐ迎えに来てください」。連絡を受けた社員は大急ぎでチーム内で引継ぎを行い、業務を終えて帰宅する。

 実はこの社員は独身で、子育て中でもない。キリンホールディングスが実施している子育ての模擬体験型研修に参加しているのだ。「なりキリンママ・パパ」という名称のため、社内ではこの研修への参加を「なりキリン」、対して実際に育児中であることを「本キリン」と、同社の人気商品「本麒麟」にちなんで呼ぶこともある。

 働き方への意識が高まり、育児や介護中の社員に配慮する機運は高まっている。ただ一方で、時短勤務や育休を取得していない社員に業務のしわ寄せが及んでいるという不満の声がくすぶりがちなのも事実だ。

 これは育児と仕事を両立する社員にとっては無言の圧力になる。たとえ会社が制度を整えていたとしても、周囲の目が気になって利用しにくくなってしまうばかりか、自分が置かれている状況を共有したり、協力を求めたりすることも難しくなる。こうなると育児中の社員に過剰な業務負担がかかりかねない。ワークライフバランスは崩れ、優秀な人材が離職を余儀なくされる恐れもある。

 こうした事態を防ごうとキリンが2019年からグループ全体で導入したのが「なりキリンママ・パパ」だ。仕事と育児の両立を体験してもらい、理解と共感を深めてもらう。

仕事は中断、在宅業務も禁止

 研修期間は1カ月。手を挙げた各部署から参加した社員は育児、介護、パートナーの病気という3つのどれかを模擬体験する。参加中の社員は原則残業が禁止され、さらに冒頭のように架空の保育園から複数回にわたって「子どもが発熱した」といった電話がかかってくる。

 これを受けた社員は業務を打ち切り帰宅しなければならない。自宅で業務をすることも禁止だ。家事や自己研さんなどに時間を充てることを求められる。「育児中は、帰宅してからが一番大変」という子育て経験者の声から生まれたルールという。こうした経験を経て、参加した社員に仕事と育児をうまくマネジメントすることの難しさを体感してもらう。

 この研修が誕生したきっかけは、営業職の社員が抱えていた不安だった。「育児をしながら仕事を続けていけるのだろうか」。こう感じていた5人の若手女性社員が16年、女性の活躍推進を目指す社外のプロジェクト「新世代エイジョカレッジ」で提言した。「育児を模擬体験しながら時間制約のある働き方に挑戦する」というアイデアはプロジェクトコンテストで大賞を獲得。その際に行われた実証実験では、時間制約のある働き方でも周囲の協力があれば業務を円滑に進められることが分かった。

 キリンによれば、研修を導入したことで育児中の社員に対する理解度は明らかに向上したという。参加した社員は育児や介護中の社員が抱えるニーズを実体験として学び、的確にサポートできるようになった。

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 職場にも変化が起きた。育児中の社員が相談事などを周囲に遠慮なく伝えられるようになり、互いに業務の現状を共有する習慣ができたのだ。「以前は属人的に仕事をする部署もあったが、積極的に現状を伝え合えるようになった」と人事総務部の豊福美咲氏は話す。効率性への意識が高まった結果、業務のスリム化も進んだ。

 参加者の約8割は男性で、約4割はマネジメント層だ。幅広い年齢層や性別、役職の社員が参加して初めて、職場の育児や介護への理解は深まるとキリンはみている。

 男女の別なく働きやすい職場作りが進めば、現場から有効な提案も生まれてくる。これを次々と制度化していったのが日本IBMだ。

 新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた20年、小学校や保育園が頻繁に休みとなり、子どもを持つ親はいや応なしに対応を迫られた。「有給休暇だけでは子どもの面倒を見切れない」。そんな社員の声を受けて会社側は同年3月には臨時の特別休暇という制度を導入した。

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