数十億円の横領や会社ぐるみの不正の隠蔽はあなたにとって縁のない話かもしれない。しかし、家族や友人につく些細(ささい)な嘘や仕事上での小さなルール違反と聞けば、多くの読者にとって「悪」が他人事ではなくなるだろう。

 法律に触れる明らかな犯罪や、社会通念に反する道徳違反。人はなぜ悪さをしてしまうのだろう。悪事を働く人だけが例外的なオオカミなのか、それとも、人間は誰しもが羊の皮を被ったオオカミなのだろうか。

「悪」は合理的な行動か

 こうした問いに対し、犯罪は善悪ではなく合理性によって行われると主張したのが、1992年にノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者ゲーリー・ベッカーだ。ベッカーは「犯罪で得られる便益」と「捕まる確率」、「捕まった時の処罰」の3要素をてんびんにかけ、状況を分析した上で犯罪を行うかどうか判断する「シンプルな合理的犯罪モデル(SMORC)」を提唱した。

 この考えのベースにあるのは、人間は自分が利益を得たり不利益を被ったりしないように合理的に行動するという経済学の考え方だ。

 しかし、得られる利益が大きくとも、数億円規模の横領に手を染める人はごくわずか。その一方、捕まる確率の高いお粗末な手口にもかかわらず、犯罪を繰り返す者もいる。

 この不合理性を解き明かす手掛かりとなるのが、心理学や行動経済学によって嘘や不正のメカニズムを読み解こうとする研究だ。人間の正直さと不正直さを研究する京都大学の阿部修士准教授によると、ある研究では、実験の1回目に嘘をついた人は、2回目にはより多くの嘘をつくという結果が示されたという。つまり、人は嘘をつくと、次々と嘘を重ねてしまう傾向にあるといえる。

京都大学准教授 阿部修士 氏
京都大学准教授 阿部修士 氏
京都大学人と社会の未来研究院の阿部准教授は、専門である認知神経科学の観点から、人の不正直さに関わる脳のメカニズムを研究している。

 他にも、嘘をついた記憶は他の記憶に比べて曖昧になりやすいという現象や、「自分は正直者である」と納得できる範囲にとどまって不正を働くという傾向も明らかになっている。阿部氏は「イソップ寓話(ぐうわ)の『酸っぱいブドウ』が示すように、人間は世界に対する認識を変えることが得意だ」と話す。状況をゆがめて自らの正当性を高めることで、合理性のない悪に染まっていく、ということもありそうだ。

 嘘や不正に関する人間の行動特性は、脳研究の中でも少しずつ解明されつつある。

 怒り、恐れ、喜びなど、急激に湧き上がる感情を処理する役割を持つのが「扁桃体(へんとうたい)」と呼ばれる神経細胞の集まりだ。左右の目の後方、脳の側頭葉の内側に1つずつある、この扁桃体の活動量が、利己的な嘘を重ねるにつれ徐々に低下していったとする実験結果がある。