行動経済学やナッジの活用は企業のマーケティング活動にとどまらない。新型コロナの感染拡大防止策や健診の受診促進策でも活用されている。供給者目線で作られてきた社会制度の課題を解決する突破口になり得る。

 「自分のため、仲間のためにも、一歩ずつ進まなくては。(中略)3回目接種で、安心というタスキを未来へつなぐために」──。青山学院大学陸上部の原晋監督が新型コロナウイルスワクチンの3回目接種を呼びかける政府広報の動画の一節だ(4月に公開開始)。

(写真=共同通信)
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 たった30秒の短いメッセージ。一見すると、幅広い年齢層に知られる著名人を起用したシンプルな内容にも思える。だが実はここには、行動経済学など本能マーケティングの知見を生かした工夫が組み込まれている。

 政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会のメンバーを務める大阪大学の大竹文雄特任教授は行動経済学が専門分野の一つ。感染拡大の初期の頃から、行動経済学の観点でどんなメッセージが人々に届きやすいかを提案し続けてきた。ポイントは利得、つまりメリットをいかに納得してもらえるようにするか。冒頭の原監督の動画でいえば「自分」「仲間」「未来」と、ワクチン接種で期待される利得を積み重ねているわけだ。「利得(の認識)は利他的なものでも効果がある」(大竹氏)という行動経済学の知見に基づく。

 2020年の帰省シーズンの前に政府が公表した「10のポイント」では「ビデオ通話でオンライン帰省」などが話題になったが、原案は「控えましょう」という文言ばかりだった。大竹氏は「控えましょう、だと損失を強く感じてしまう。ポジティブに受け取れる文言が重要」と考え、修正を提案した。21年のワクチン接種開始時に配信した広報動画では、元サッカー日本代表の内田篤人氏が「大切な人と安心して過ごせる」「あなたとあなたの大切な人を守るためにも」といった文言で利得を強調した。

 新型コロナ対策のように、品物やサービスという直接的な利得が発生しない分野でも、本能マーケティングの活用は着実に広がり始めている。

「もったいない」で健診促進

 22年春、京都府内の全国健康保険協会(協会けんぽ)の加入者に届いた健康診断案内のはがきは、以前と印象の異なるものだった。「受けないなんてもったいない!」「7150円相当が無料!」など、一般の商品をアピールするチラシでもよく見かけるような文言が並ぶ。