この記事は日経ビジネス電子版に『コロナ禍で苦境の宴会場、「オマケ」のサウナに集う若者が救う』(4月25日)、『バスもテントも、「SaaS」でサウナもモバイルの時代』(4月26日)、『下町銭湯をリバイバル、元プロレスラーが熱波 個性派サウナで蘇る 』(4月27日)として配信した記事を再編集して雑誌『日経ビジネス』5月2日・9日号に掲載するものです。

サウナに革新の3つの熱波が押し寄せている。新型コロナウイルス禍でも、集客力に磨きをかけたサウナに多くのファンが集う。新たな経済圏の担い手は若年層。もう「おじさんたちのたまり場」とは呼ばせない。

若者たちの間でもリアルなコミュニケーションの場として脚光を浴びる(写真=吉田 サトル)
若者たちの間でもリアルなコミュニケーションの場として脚光を浴びる(写真=吉田 サトル)

 東北自動車道、一関インターチェンジのほど近くにある、その名も「古戦場」。看板には「お風呂」「お食事」の文字があり、少し古びた健康センターにしか見えない。だが、駐車場には車があふれ、地元の「平泉ナンバー」に加えて横浜、川口(埼玉県)など県外ナンバー車も目立つ。

 来場者の目的はサウナだ。「セルフロウリュをできるのがいい」と、宮城県名取市から1時間かけて来た24歳の男性会社員は話す。熱源となるサウナストーブ上の熱した石に水をかけ、蒸気を発生させる入浴法「ロウリュ」が人気の知る人ぞ知る施設だ。

古戦場の「熱波師」は他の施設からも引っ張りだこの人気
古戦場の「熱波師」は他の施設からも引っ張りだこの人気

 運営する古戦場商事(岩手県一関市)は1951年、平安時代の「前九年の役」の古戦場である衣川柵跡の近くに、精肉店として創業。レストランを数軒立ち上げた後、バブル期の86年に今の古戦場は生まれた。そんな経緯もあり同所にはレストランや宴会場が併設。収益の8~9割は飲食部門が稼いでいた。

 そんな古戦場は2年前に世界中を襲った新型コロナウイルス禍で宴会場が営業自粛となり、経営は大打撃を受けた。「私の代でつぶれる」。2019年末に父から経営を引き継いだ浅野裕美社長は危機感を覚えたという。

 転機が訪れたのは20年9月。メンテナンスの難しさから露天風呂を廃止するなど「立派でも何でもない施設」(浅野社長)なのに、温浴施設の売り上げがコロナ禍でも落ち込んでいないことに気付いた。

サウナ市場は20年のコロナ禍でも底堅かった
サウナ市場は20年のコロナ禍でも底堅かった
●日本のサウナ市場の規模(出所:日本サウナ総研)
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 常連客に理由を聞くと「サウナの熱さがいい」との回答。大浴場に備えられたサウナは定員8人ほどだが、室内の温度は100度超まで上がる。その「超ストロングスタイル」がひそかに人気を呼んでいたのだ。

 浅野社長はその魅力を理解しきれていなかったが、復活には「これしかない」と一気にアクセルを踏んだ。

 取りかかったのはサウナストーブの改造。古戦場のサウナ室は「ドライサウナ」で、ストーブに水をかけられない。湿度が上がり体感温度も高まるロウリュを取り入れられれば、古戦場の「高温」という武器に磨きがかかる。新規投資は重くのしかかるため、サウナストーブの製造業者から「推奨はしない」と前置きされて教えられた「改造」を選んだ。

 それはサウナストーブの上に鉄板を置き、その上に石を置くという簡単なもの。同年11月に完成するとすぐに開店待ちの客も出始めた。手応えを得た浅野社長はかつて露天風呂があった場所を、屋外で休息できる「外気浴」スペースにするなど費用をかけずにサウナを最大限楽しめる設備を整えていく。地道な努力で冒頭の人気ぶりを演出した。

 「まさかサウナが救ってくれるなんてね」と、浅野社長は笑う。当初は冷ややかな目で見る社員も多かったが、今では全社一体となってサウナの魅力度向上に努めている。

 かつては「おじさん」たちの憩いの場だったサウナ。だが、足元でこれまでと違う熱気を帯びている。コロナ禍で市場は一時冷え込んだが、人とのつながりや自分だけの居場所を求め、サウナに人が戻り始めた。

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