この記事は日経ビジネス電子版に『東芝「解体」の根源は不正会計対応、膿を出し切らず巨額損失へ』(11月18日)、『上場維持にこだわった東芝、アクティビスト受け入れ泥沼化へ』(11月18日)として配信した記事を再編集して雑誌『日経ビジネス』11月22日号に掲載するものです。
東芝はなぜガバナンス(企業統治)不全に陥り、解体を迫られるまでになったのか。不正会計問題からの歴史を振り返ると、少なくとも「4度」再生するチャンスがあった。おのおのの分岐点で判断を誤った背景には、経営者の保身が見え隠れする。

「140年の歴史で最大ともいえるブランドイメージの毀損があった」。2015年7月21日。不正会計に関する第三者委員会の報告書を前日に受領した田中久雄社長(当時)はこう語り、報道陣の前で頭を下げ続けた。

誰もが仰ぎ見る名門企業という東芝のイメージは、不正会計で根底から覆った。パソコンやインフラ事業などを中心に利益の水増しは7年間で2200億円を超えた。田中氏、西田厚聰氏、佐々木則夫氏の歴代3社長が引責辞任。当時の取締役16人のうち8人が退任に追い込まれた。
9月には東京証券取引所が東芝株を「特設注意市場銘柄」に指定した。15年末には金融庁が有価証券報告書などの虚偽記載を巡り、約73億円の課徴金納付命令を出した。
東芝も独自に役員責任調査委員会を設置し、不正会計の期間に取締役・執行役だった人物の責任を調査した。対象となる98人のうち14人を不正会計に関与した可能性があると判断し、歴代3社長と2人のCFO(最高財務責任者)ら5人に善管注意義務違反があったと指摘した。東芝は法人として、5人に対して損害賠償請求訴訟を起こした。
田中氏は「140年で最大だった」と述べた。だが現在から振り返ると、この会見はその後6年以上も続く混迷の序章にすぎない。
「名ばかり」の第三者委員会
東芝は11月12日に主要事業ごとに3社に分離すると発表し、大きな「分岐点」を迎えた。なぜ、アクティビスト(物言う株主)との対立が激化し、ガバナンス(企業統治)不全に陥ったのか。歴史を振り返ると、東芝は少なくとも「4度」、再生するチャンスを逃したことが分かる。
最初の分岐点は、15年の不正会計問題の調査対応だろう。ガバナンスに精通する久保利英明弁護士は「東芝はその後も多くの問題を起こしたが、全ての根源はここにある。『落第点』の対応で済ませたまま改善せず、現在に至った」と指摘する。
「落第点」の対応とはどういうことか。まずは不正会計の調査に当たる人選だ。利害関係を持たない第三者で委員会を構成すべきなのに、東芝は委員の一人に財務アドバイザー契約を結んでいたデロイトトーマツ関連の人物を選んだ。調査補助者にもデロイトトーマツの関連会社を選ぶなど、身内で固めたわけだ。
そんな「名ばかり」の第三者委員会によって、不正会計の調査対象はパソコンなどの国内事業を軸に絞り込まれた。米原発子会社のウエスチングハウス(WH)や過去の決算にお墨付きを与えてきた監査法人には踏み込まず、調査すらしなかった。
東芝は歴代3社長などトップを辞任させることで、粉飾決算のけじめがついたと主張した。確かに、不正を指示した経営陣はいなくなったかもしれない。だが、実際に数字の操作に手を染めた幹部の多くは生き残った。今なお「社内にはグレーな人材が多い」と漏らしている東芝幹部がいるほどだ。
東芝が本気で生まれ変わる気があったのなら、15年の段階で第三者による調査と社内処分を徹底して「膿(うみ)」を出し切るべきだった。だが、経営陣が選んだのは問題に蓋をして逃げ切る道だった。この後ろ向きな判断が、1年後に致命傷を招いた。
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