この記事は日経ビジネス電子版に『東京五輪に踊らぬ消費者 高度成長期より幸せな私たち』(7月8日)として配信した記事を再編集して雑誌『日経ビジネス』7月19日号に掲載するものです。
1回目の東京五輪から半世紀余り。成熟した時代に再び東京五輪が開かれる。現状を甘受するのか、それとも再興か。2度の五輪を経て、日本はどこに向かうのか。

出港時間となり、連絡船のスピーカーから「蛍の光」が流れ始めた。
「しっかりなー」「体に気をつけろよー」。見送りに来た家族やクラスメートが桟橋から声をかけると、色とりどりの紙テープを握りしめながら、学生服姿の少年少女たちがデッキの手すりに顔をうずめた。その様子をカメラに収めていた野水正朔氏はもらい泣きした。
「男の子も女の子も泣いた。私も泣いた」
豊かさ求めた15歳の門出
1回目の東京五輪が開かれた1960年代、港の桟橋や駅のホーム、バスのターミナルで多くの中卒者が惜別の涙を流した。行き先は町工場や商店など、就職先がある都会である。
60年に政府が所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長が始まると、東京・大阪・名古屋の三大都市圏では人手不足が一層深刻になった。一方、農村部では人口が増えすぎて雇用の受け皿が足りなくなった。必然的に農村部から都市部に人口が大移動した。
養育費を捻出できない貧しい農村の家庭では、中学校を卒業したばかりの子どもを学校ぐるみで都会に送り出した。「集団就職」と呼ばれるその様子を記録に残そうと、兵庫県・淡路島の写真家、野水氏は地元の洲本港から出航する神戸港行きの連絡船が見えなくなるまでシャッターを切った。
「泣き顔で瀬戸内海を渡った子どもたちには、豊かな都会への憧れもあったんだ」。野水氏は、ファインダー越しに眺めた彼ら、彼女らの複雑な表情を思い出したかのように、そう言った。
それから半世紀余り。長年にわたり人口の流出が続いていた淡路島で今、ある異変が起きている。
瀬戸内海の夕日に憧れて
淡路島に3つある市のうち、淡路市では2020年、転入者が転出者を上回った。1321人が市内に転入したのに対して、転出は1252人にとどまり、「社会増減」は差し引き69人のプラスとなった。高度成長期以降、社会増減のマイナス傾向が続いていた淡路市にとっては、大事件である。
過去十数年間に20社以上の拠点を市内に誘致したことが功を奏した。10年以上前から淡路島で就農支援や商業施設の運営に取り組んできた人材サービス大手のパソナグループもその一社だ。20年からは東京に構える本社の一部機能を順次、淡路島に移している。
パソナの南部靖之代表は、淡路島への移住を希望する社員が非常に多いことに、驚いている。
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