この記事は日経ビジネス電子版に『釜石の花露辺地区はなぜ”万里の長城”をはねのけたのか』(2月24日)として配信した記事などを再編集して雑誌『日経ビジネス』3月1日号に掲載するものです
震災から10年を経ても被災地改革が完成しない背景には、この国の構造的な問題がある。だがその構造が変わるのを待っていては、真の意味での復興はいつまでも実現しない。被災地で静かに続く「小さな改革」は、先送り国家ニッポンを変える第一歩になり得る。
「日本は戦後、内へのコロナイゼーション(植民地化)を推し進めてきた」

立命館大学衣笠総合研究機構准教授
震災後、国と被災地の関係についてこう表現した識者がいる。被災地の“原子力ムラ”の起源を追求した『「フクシマ」論』の著者で、立命館大学衣笠総合研究機構准教授の開沼博氏だ。
1960年代以降、エネルギー政策の転換に伴って、貴重な地場産業を担ってきた炭鉱が衰退。国からの膨大な経済支援の見返りに原発建設が進んだ福島は、まさに「もの言えぬ東京の植民地」だった──。そんな見方だ。
震災から10年を経ても「そんな被災地と国の関係に、変化があったとは思えない」と開沼氏は話す。「震災直後こそ地域の自立に向けリーダーシップを発揮しようとした自治体や団体もあったが、多くは一時的な動きに終わった。地方が生き残るため国に自発的に従属せざるを得ない構造は、今も変わっていない」(開沼氏)
規制や既得権益の問題以上に開沼氏が懸念するのが被災地の人材不足だ。「被災地ではカネとモノの問題はかなり解決し、中央との情報格差もなくなりつつある。だが、ヒトがいない。高度人材を育む教育機関も不足しており、新産業計画なども人材面で頓挫する例が少なくない」(同)
社会システムの変容を拒んだ国
これでは理想の地方分権の実現も遠い。「この10年でむしろ日本全体が思考停止し、社会システムの変容を自ら拒んでしまったようにすら見える。すべてが中央集権的な国では、地方に新産業など生まれないままだ」。「東北学」の権威として知られ、政府の東日本大震災復興構想会議委員を務めた学習院大学教授の赤坂憲雄氏もこう話す。
では、被災地はどうすべきなのか。立命館大の開沼氏は「それでも10年後、20年後、100年後の超長期的視点に立って、できることから進めていくしかない」と話す。
様々なプロジェクトが難航しているように映る被災地。だが、開沼氏の言う「自分たちにできる小さな改革」を進める動きは今も各地で静かに続いている。ここまで紹介した“被災地改革の旗手”たちもその例外ではない。
イーロン・マスク氏から太陽光発電システムを寄贈された福島県相馬市が力を入れるのは水素だ。市内に製造拠点を置くIHIなどと協力し水素エネルギーの研究を加速。アンモニアやメタンも研究し、水素生成時に発生する酸素を利用した水耕栽培にも着手する。
芽吹き始めた種と知恵
大手電力の壁に苦戦する飯舘電力(福島県飯舘村)は、被災した村の現状を伝えるべく飯舘村のバーチャルツアーを始めた。「これだけ美しい村なのに人がほとんどいない状況が続いています」。2月、福島市の事務所でウェブカメラ越しに、ツアー参加者約80人に村の魅力を必死に伝える千葉訓道副社長と米澤一造副社長の姿があった。
「電力事業に挑む酒屋」こと会津電力(同県喜多方市)の佐藤彌右衛門会長も諦めない。今春、約3000世帯に電力の小売事業を始める。生活協同組合とも連携し、5年後に2万世帯を目指す。「何が何でも電力大手の牙城の一角を崩す」と佐藤氏は意欲を燃やす。
地域の大活性化プランが幻に終わった福島県西郷村は、緩やかな人口増加が続く。高速道路が整い、日本で唯一新幹線の駅がある村という地の利などを生かしたほか、地道に子育て支援などを打ち出してきた成果だ。「身の丈に合わない企業誘致策で大きな傷を負うより、結果としてよかったのではないか」。10年前、計画に参画予定とされた企業の中にでさえこんな声がある。
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