この記事は日経ビジネス電子版に『イーロン・マスクはどこへ? 被災地「夢の新電力計画」の現在地』(2月15日)として配信した記事などを再編集して雑誌『日経ビジネス』3月1日号に掲載するものです
東日本大震災で得た教訓の下、強い決意を持って始めたはずの様々な改革。だが電力改革から新産業育成まで、その多くは10年後の今も完成に至っていない。少子化対策から税財政まで社会課題の解決を先送りするニッポン。被災地はその象徴だ。


福島県相馬市。JR相馬駅から北東へ車で約10分の場所に1000m2ほどの土地がある。市が運営する産業廃棄物の埋め立て処分場の一角だ。その片隅に太陽光発電システムが3台置かれている。太陽光パネル96枚で構成されるシステムの出力は20キロワット、総額は2000万円超。いずれも現役で、発電した電気は地下ケーブルを通じて約100m離れた市の施設に送られ、施設全体の電気代のうち年間約50万円分を賄っている。
「そんなこともあったような……」
それでも、このシステムの由来を知る者からすれば、年50万円という“わずかな成果”を出しながら、枯れ草が広がるその姿は、少なからず寂しく映るかもしれない。というのも、このシステムは米電気自動車(EV)メーカー、米テスラのイーロン・マスクCEO(最高経営責任者)が2011年、福島が世界に先駆け「再生可能エネルギーの一大聖地」になると期待し、その起爆剤として現地を訪れ寄贈したものだからだ。
今や米アマゾン・ドット・コム創業者のジェフ・ベゾス氏を抜いて一時、世界一の富豪となった希代の起業家は10年前、福島第1原子力発電所の事故はソーラーパワーの重要性を世界に知らしめる契機になると考えた。テスラの経営とは別に、再生可能エネルギー研究・支援団体を運営するマスク氏。その動きは速く、11年3月11日の震災発生から間もなく財団を通じて相馬市に太陽光システムの寄贈を打診し、7月29日には現地入りして着工式に参加している。

着工式で「寄贈が未来への希望につながればと思う」と話すマスク氏に対し、相馬市側も「今回の寄贈を将来への種にする」と約束した。だがあれから10年、太陽光パネルは当時のまま。地元の関係者に詳細を聞こうにも、「イーロン・マスク? そういえばそんなこともあったような……」とその存在自体、忘れている人もいたほどだった。
誤解なきように言うと、相馬市は被災地の中でも再生可能エネルギーの導入に最も積極的な自治体の一つだ。11年8月、復興計画第1弾「津波被災地での太陽光発電の検討」を打ち出し、14年4月策定の第2弾でも「再生可能エネルギーのモデル事業の実施」「再エネを地産地消型で活用した循環型社会づくり構築」を掲げた。
12年に再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)がスタートすると、13年10月に600世帯程度の電力を賄える2メガワット級の太陽光発電設備「相馬太陽光発電所」が稼働。17年には、東京ドーム約15個分に当たる約70万m2の土地にも巨大太陽光発電設備を設けた。
ただ、持続可能な社会の実現を人生の目標とするマスク氏が現状を知れば、その動きはそれでもまだ遅いと感じるに違いない。10メガワットを超えるような大型の太陽光発電設備は数えられるほどしかなく、企業活動から市民生活まで全てを賄うまでには到底至らない状況だ。再生可能エネルギー用の送電線網の整備も完了していない。
「市民エネルギー会社」淘汰も

そもそもマスク氏が、福島を「再生可能エネルギーの一大聖地」にすべく現地入りしたという一報を聞いたとき、被災した多くの人がイメージしたのは「街の全てを、安全で環境に優しい新しい電力で動かす未来都市」だったはずだ。改革は進んでいるものの、そんな理想から見れば、明らかに物足りない状況なのは事実。設置された当時のまま、細々と発電を続けているマスク氏の太陽光発電システムはその象徴と言っていい。
東日本大震災は被災地に混乱をもたらすとともに、日本社会が抱えていた様々な矛盾を改めて顕在化させ、多くの国民に不退転の改革を決意させた。原発に依存したエネルギー政策の転換はその筆頭だ。
被災地の惨状を前に多くの自治体や個人が改革の旗手に名乗りを上げ、地域住民が電力会社を立ち上げる「市民エネルギー会社」も勃興した。NPO法人環境エネルギー政策研究所の古屋将太研究員は「17年時点では200業者が確認されている。現在は230前後ではないか」とみる。
相馬市などはむしろ十分健闘している方で、大幅に遅延したり立ち消えたりしてしまったプロジェクトも少なくない。福島県飯舘村の市民エネルギー会社、飯舘電力の米澤一造副社長は「今後5年で、業界全体で存続が危ぶまれるところも出てくる」と予見する。
なぜこんなことになるのか。答えは単純で、日本における電力改革には、一自治体や一企業の頑張りではどうにもならない高いハードルが今なお立ちはだかるからだ。「日本で再生可能エネルギーの普及が進まないのは結局、既得権益と規制という2つの壁を越えられないから」。京都大学大学院経済学研究科の特任教授で、エネルギー戦略研究所の取締役研究所長を務める山家公雄氏はこう話す。
飯舘電力も14年9月の設立当初から幾度も「既得権益と規制の壁」にぶつかってきた。

「設立翌日に東北電力に送電線への接続保留を発表された」と苦笑しながら振り返るのは創業メンバーである千葉訓道副社長。村内に1.5メガワットの大規模太陽光発電所を建設する計画だったが、いきなりはしごを外された。太陽光がダメならと数年後には風力発電所の建設を考えた時期もあった。しかし東北電力に接続検討を申し込むと送電線の増強工事などを理由に約20億円もの費用に加え、工事完了までは5年前後を要すると、担当者には口頭で告げられた。
いわゆる「受益者負担」は市場経済の原則とはいえ、村民らが出資した市民エネルギー会社にそんな大金が出せるはずはない。「東北電力が悪いわけではない。悪いのは3・11という悲劇を経験してもなお既得権益を優先し、市民エネルギー会社の成長に向けた規制緩和一つ実現できない日本という国だと思う」と千葉氏は続ける。
結局、飯舘電力は15年以降、送電線への接続が可能だった50キロワット未満の小規模な発電所を複数所有する戦略を選択。20年までに設置した太陽光発電所の数は49カ所となり、確かに総発電容量も増えた。だが、経営は決して芳しいものではない。
太陽光発電の売電価格は年々下落。飯舘電力のケースでは、14年度の売電価格は1キロワット時当たり32円だったが、今や13円になった。このままでは、「小規模発電所で分散して発電する」という決して効率的と言えない同社のビジネスモデルでは、利益がしぼむ。「結局、事業を続けられるのは、資本力とマンパワーのある電力事業者だけだ」と米澤氏は強調する。
「大手は再エネ普及に及び腰」
福島県喜多方市に本社を構え太陽光発電事業などを手掛ける会津電力の佐藤彌右衛門会長も、震災後に掲げた「会津におけるエネルギーの自給自足」という夢を、「既得権益と規制」の壁に阻まれ続けている経営者の一人だ。
1790年以降、230年以上続く老舗酒蔵「大和川酒造店」(喜多方市)の9代目でもある佐藤氏。2013年の設立の際は「酒屋が挑む電力事業」として注目を集め、5~10メガワットクラスのソーラー建設を将来の目標に掲げた。
だが、飯舘電力同様、東北電力の送電線を思うように使えず、現在、県内21の市町村で88カ所の太陽光発電所を持つものの、メガソーラーは1カ所のみ。50キロワット以上1メガワット未満の中規模発電所は5カ所で、その他82カ所は50キロワット未満の小規模発電所だ。太陽光発電の売買価格が下がれば、飯舘電力と同じく苦境は避けられない。
14年9月に送電線への接続保留を表明した理由として東北電力は、太陽光発電事業に参入が相次ぎ、送電網が逼迫する恐れがあるためと説明していた。佐藤氏は「稼働していない原子力発電所に充てるつもりの送電網の容量は残っているはず。電力大手は結局、再生可能エネルギーを普及させたくないのだろう」と話す。
電力自由化の一環で20年度までに電力大手は送配電網を分社化したものの、資本関係は維持され、実態はそれまでと変わらない。被災地の住民がいくら「電力の地産地消」を目指しても、電力大手のさじ加減一つで翻弄される構図はこれからも続く──。これが佐藤氏の考えだ。
「再生可能エネルギーの導入で先行する欧州にも既得権益者はいる。だがEU(欧州連合)政府や各国には政策を遂行する強い意志があり、既得権益に立ち向かう傾向が強い」。エネルギー戦略研究所の山家氏はこう解説する。
例えばドイツでは、既存の送電会社に対し、再生可能エネルギー事業者を優先して送電線に接続するよう国がルールを策定。送電ルートの容量がオーバーし発電量を落とす場合でも、再生可能エネルギー事業者は最後まで発電量が保護される仕組みになっている。
日本でも20年、経済産業省が送電網の利用について、将来的に再生可能エネルギーを優先させる方針を示した。ただ、山家氏は「大きな方針変更ではあるが、経過措置的な対応で時間を要するのは確実。本格的な実現はいつごろになるか見通せない」と話す。
かくして「再生可能エネルギーの一大聖地」とは程遠い状況にある震災10年の福島。もっとも、「既得権益と規制」により先送りにされている改革はエネルギー関連だけではない。
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