この成功が原子力発電所事業への傾倒につながる。就任当初から「成長路線に転じる」と語ってきた西田氏は06年2月に米原子力大手のウエスチングハウス(WH)を約6200億円で買収すると決断。続く5月には「3年間で設備投資と研究開発費を合わせて3兆3000億円を投じる」と宣言した。
メリハリも見せた。日立と松下電器産業(現・パナソニック)と共同出資していた大型液晶事業の増資には応じなかった。当時の日経ビジネスは西田氏を「大胆に即決するという印象と裏腹に、綿密にリスクを評価したうえで決断する細心さもある」と見ていた。
一方の日立製作所。1999年3月期の巨額赤字を受けて2000年代に改革に乗り出すも、いいものを作れば売れるという発想の「工場文化」や、予算に合わせて動く受け身の「重電文化」は根深かった。1999年に社長に就任した庄山悦彦氏は、DRAMやシステムLSI、携帯電話、テレビ向け液晶パネルなど競争力が劣るとみた事業を分離する改革に乗り出した。しかし、安定成長に慣れた日立の社内は「どん底と思っていない、何とかなるという感覚だった」(東原敏昭社長兼CEO)。
米IBMから買収して自社事業と統合したHDD(ハードディスク装置)や、改革を徹底しきれないテレビ、中小型液晶パネルなどの事業が足を引っ張り、業績の低空飛行が続いた。大胆な賭けに出る東芝の西田氏の「狂気」じみた決断力に対し、日立の経営陣は「良識」にとらわれて果断さを失っていた。
失われた20年で気付いた日立
日立は遅れた改革のツケを09年に支払うことになった。リーマン・ショック直後の09年3月期、当時製造業最大の7873億円の最終赤字を計上。本業の悪化に加え、マイコンやシステムLSIを手掛けるルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)の業績低迷や、人員の削減や固定資産の減損に伴う構造改革費用などが原因だった。
このまま赤字が続けば、日立は潰れるかもしれない。そんな危機感の中で日立の将来を託されたのが、日立マクセル会長を務めていた川村隆氏だった。1999年に副社長に就任したが、2003年から子会社に転じていた。キャリアの晩年に差し掛かろうとしていた人物を呼び戻す異例の人事だった。
09年4月に会長兼社長に就任した川村氏は、後に社長を託す中西宏明氏など5人の副社長と共に、日立が取るべき方策を大急ぎで決めていった。「社会イノベーション事業への傾斜を深める」。川村氏は就任直後の会見で、社会インフラや産業機器とIT(情報技術)を融合させる事業を世界で展開する企業になると宣言した。

中西氏は「日立の目的は総合電機になることではない。技術でリターン(利益)を得ながら、社会に貢献することだ」と語り、「総合電機」からの決別を明確にした。ある中堅社員は、「ひどい赤字になって、『これではいけない』という経営層からのメッセージが増えた」と語る。「そこから会社の雰囲気がガラッと変わっていった」
以降の日立の改革の道筋は多くの人が知るところだ。1つの大きな方針の下、有用な製品やサービスの事業は社内に取り込み、独立して成長させるべき事業は売却していった。イタリアの鉄道関連企業や米国のデータ分析企業、スイスABBの送配電事業など、事業買収にも積極的に取り組んだ。約10年をかけた事業ポートフォリオの整理は終盤に差し掛かっている。

リーマン・ショックの影響を受けたのは東芝も同じだった。テレビなどデジタル家電や半導体が⼤幅な需要減や価格の低下に見舞われ、09年3月期は最終赤字に陥った(発表当時は3435億円。3988億円だったと15年に修正)。
それでも東芝の「強いものをより強く」という戦略は揺るがなかった。09年に社長に就任した原発事業出身の佐々木則夫氏は「16年3月期に原発事業の売上高を1兆円にする」との目標をぶち上げた。まだ11年の東日本大震災やそれに伴う原子力発電所の事故を誰も想像すらしていなかったころだ。
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