高度成長期に日本の発展とともに業容を広げ、競ってきた総合電機の両雄。ともに巨額赤字という挫折を味わい、現状は日立製作所が東芝をリードする。両社はどう道をたがえたのか。過去30年を検証する。
売上高は約2.6倍、営業利益率は3.7ポイント差。2020年3月期の業績では、日立製作所と東芝に大きな差がついている。時価総額(12月4日時点)でもその差は約2.8倍。事業ポートフォリオの転換を積極的に進めた日立が企業価値で東芝を大きく上回る状況だ。
今でこそ「改革の優等生」とされる日立だが、かつては改革に踏み出せない「鈍牛」と揶揄され、「優等生」の東芝と比較されていた。
「まさに“失われた20年”だった」。1990年代~2000年代の日立をこう振り返る関係者は多い。09年に会長兼社長に就いた川村隆氏は、「このままでよいのかと思いながらも居心地は悪くない組織につかり、痛みを伴う改革を先送りする図式」と表現した。
火力発電所のタービン、鉄道車両や運転管理システムなどを手掛ける日立は、日本の高度成長期に国内のインフラ産業とともに成長。安定事業で稼いだ利益を家電や半導体などへの投資に振り向けて総合力を蓄えてきた。そうした成長を遂げたのは東芝も同じだ。
国鉄の分割民営化や電気事業制度の改革などの影響でインフラ企業の設備投資が減り始めると、半導体などデジタル事業に成長を託すようになる。しかし、「10年ほどの長期スパンで事業をこなす重電に慣れた日立は、半年で売上高が変動する半導体の世界になじまなかった」(日立の元半導体技術者)。
それでも日立は総合電機の看板を下ろさなかった。1998年に金井務社長(当時)は「日本のインフラを作ってきた自負と責任があり、米国のように必要なくなったら捨ててしまう経営はなじまない」と語っている。その結果、99年3月期に日立の最終損益は3000億円超の赤字に陥った。
「強い専門企業の集団に」
「GE(米ゼネラル・エレクトリック)が10年かかった改革を1~2年でやり遂げよう」
東芝の西室泰三社長(当時)は99年の年頭、社員にこう呼びかけた。文系で半導体の営業部門出身という異色のトップだった西室氏が目指したのは、「何でも抱え込む総合電機を各分野で強い専門企業の集団に変える」こと。「100ある事業の半分が赤字。それを解消するだけで東芝は素晴らしい会社になる」と語り、不採算事業の切り離しに取りかかった。西室氏が目指した方針は後の成功につながる一方、その後の経営陣の暴走を招く遠因にもなる。
東芝の社長を4年務めた西室泰三氏(左)は2000年に会長に就任し、後任には岡村正氏(右)が就いた(写真=AFP/アフロ)
半導体メモリーは象徴的な成功例だろう。2001年、東芝はDRAM撤退と、世界に先駆けて実用化したフラッシュメモリーへの集中を決断。05年に社長に就任したパソコン事業出身の西田厚聰氏が積極投資を断行し、フラッシュメモリーは東芝の主力事業に成長した。協業する米サンディスク(現ウエスタンデジタル)と世界首位グループを形成し、まさに「強い専門企業」の象徴となった。
この成功が原子力発電所事業への傾倒につながる。就任当初から「成長路線に転じる」と語ってきた西田氏は06年2月に米原子力大手のウエスチングハウス(WH)を約6200億円で買収すると決断。続く5月には「3年間で設備投資と研究開発費を合わせて3兆3000億円を投じる」と宣言した。
メリハリも見せた。日立と松下電器産業(現・パナソニック)と共同出資していた大型液晶事業の増資には応じなかった。当時の日経ビジネスは西田氏を「大胆に即決するという印象と裏腹に、綿密にリスクを評価したうえで決断する細心さもある」と見ていた。
一方の日立製作所。1999年3月期の巨額赤字を受けて2000年代に改革に乗り出すも、いいものを作れば売れるという発想の「工場文化」や、予算に合わせて動く受け身の「重電文化」は根深かった。1999年に社長に就任した庄山悦彦氏は、DRAMやシステムLSI、携帯電話、テレビ向け液晶パネルなど競争力が劣るとみた事業を分離する改革に乗り出した。しかし、安定成長に慣れた日立の社内は「どん底と思っていない、何とかなるという感覚だった」(東原敏昭社長兼CEO)。
米IBMから買収して自社事業と統合したHDD(ハードディスク装置)や、改革を徹底しきれないテレビ、中小型液晶パネルなどの事業が足を引っ張り、業績の低空飛行が続いた。大胆な賭けに出る東芝の西田氏の「狂気」じみた決断力に対し、日立の経営陣は「良識」にとらわれて果断さを失っていた。
失われた20年で気付いた日立
日立は遅れた改革のツケを09年に支払うことになった。リーマン・ショック直後の09年3月期、当時製造業最大の7873億円の最終赤字を計上。本業の悪化に加え、マイコンやシステムLSIを手掛けるルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)の業績低迷や、人員の削減や固定資産の減損に伴う構造改革費用などが原因だった。
このまま赤字が続けば、日立は潰れるかもしれない。そんな危機感の中で日立の将来を託されたのが、日立マクセル会長を務めていた川村隆氏だった。1999年に副社長に就任したが、2003年から子会社に転じていた。キャリアの晩年に差し掛かろうとしていた人物を呼び戻す異例の人事だった。
09年4月に会長兼社長に就任した川村氏は、後に社長を託す中西宏明氏など5人の副社長と共に、日立が取るべき方策を大急ぎで決めていった。「社会イノベーション事業への傾斜を深める」。川村氏は就任直後の会見で、社会インフラや産業機器とIT(情報技術)を融合させる事業を世界で展開する企業になると宣言した。
リーマン・ショック後に巨額の赤字に陥った日立製作所は09年3月に川村隆氏(中央)を社長に選んだ(写真=ロイター/アフロ)
中西氏は「日立の目的は総合電機になることではない。技術でリターン(利益)を得ながら、社会に貢献することだ」と語り、「総合電機」からの決別を明確にした。ある中堅社員は、「ひどい赤字になって、『これではいけない』という経営層からのメッセージが増えた」と語る。「そこから会社の雰囲気がガラッと変わっていった」
以降の日立の改革の道筋は多くの人が知るところだ。1つの大きな方針の下、有用な製品やサービスの事業は社内に取り込み、独立して成長させるべき事業は売却していった。イタリアの鉄道関連企業や米国のデータ分析企業、スイスABBの送配電事業など、事業買収にも積極的に取り組んだ。約10年をかけた事業ポートフォリオの整理は終盤に差し掛かっている。
日立は英国の高速鉄道の車両製造や保守を受注し、17年に営業運転を始めた(写真=SWNS/アフロ)
リーマン・ショックの影響を受けたのは東芝も同じだった。テレビなどデジタル家電や半導体が⼤幅な需要減や価格の低下に見舞われ、09年3月期は最終赤字に陥った(発表当時は3435億円。3988億円だったと15年に修正)。
それでも東芝の「強いものをより強く」という戦略は揺るがなかった。09年に社長に就任した原発事業出身の佐々木則夫氏は「16年3月期に原発事業の売上高を1兆円にする」との目標をぶち上げた。まだ11年の東日本大震災やそれに伴う原子力発電所の事故を誰も想像すらしていなかったころだ。
「賭け」体質が残った東芝
フラッシュメモリーの貢献も東芝の戦略を後押しした。10年3月期にメモリーの需要増と価格安定などで営業利益が黒字に転換すると、次の1年もフラッシュメモリーの需要拡⼤が追い風となってV字回復を果たした。「強い専門企業」が会社を危機から救ったわけだ。大胆な投資という「賭け」を好む東芝の体質は変わらずに残った。
この時期に東芝内部で横行するようになったのが不正会計だ。「チャレンジ」と称する業績目標達成のために複数の部門が不正会計に手を染めていた。西室氏や西田氏、佐々木氏らの強烈なリーダーシップが続いた東芝では、トップが掲げた目標を必ず達成しなければならないという強烈なプレッシャーがまん延していた。
そんな東芝が転落するきっかけとなったのが東日本大震災だった。福島第1原子力発電所の事故で、原発輸出で成長する構想に暗雲が立ちこめた。それでも東芝は、WHの買収で抱えた巨額の「のれん」から目を背け、何とかして損失を避ける道を探った。15年にはWHが原発建設会社の米CB&Iストーン・アンド・ウェブスター(S&W)をゼロ円で買収。取締役会で「タダより高いものはない」という指摘があったにもかかわらず、巨額損失の火種を抱えてしまった。
東芝が買収したウエスチングハウスが建設中の米ボーグル原発(13年3月)(写真=共同通信)
強い事業に集中的に投資する判断が間違っていたわけではない。高い業績目標に対する指示にノーと言えず、過去の決断が間違っていたと認められない上意下達の社風。閉鎖的で透明性を欠く組織。高リスクな事業に集中してリスクの分散ができなかった経営。こうした要因が複合的に組み合わさって起こったのが東芝の経営危機だった。
その過程で新たな事業の芽が出にくくなっていたことも東芝の再生を難しくした。東芝は重電も軽電も関係なく研究所で世界レベルの研究に取り組み、ボトムアップで新たな事業を生み出していく会社だった。ところがトップダウンの意思決定が強くなり、「現場から出たアイデアよりも経営トップの肝煎りプロジェクトが優先されていた」と現役の東芝幹部は当時を振り返る。
東芝は17年3月期に日立を上回る製造業最大の最終赤字を計上。成長の柱として期待していたメディカル事業に加え、フラッシュメモリー事業の売却も決めた。自ら事業を取捨選択する余地はなく、追い求めた「強い専門企業」を手放すしか生き残る道はなかった。
リーマン・ショック後に分かれた明暗
高リスクの事業への集中が分岐点
●日立と東芝の最終損益の推移と主な出来事
(写真=日立:Rodrigo Reyes Marin/アフロ、東芝:つのだよしお/アフロ)
注:歴代社長の日立・東原氏と東芝・車谷氏はCEO就任期間
出所:最終損益はQUICK・ファクトセットなど。2021年3月期は会社予想。東芝の21年3月期は持ち分法適用会社であるキオクシアHDの上期業績のみを反映した予想
(写真=日立:Rodrigo Reyes Marin/アフロ、東芝:つのだよしお/アフロ)
振り返ってみれば、日立と東芝の歴史を分けたのは、自己否定ができるかどうかだった。一時は社長候補とされながら子会社に転じた川村氏を呼び戻した日立と、西田氏の積極投資という路線を引き継ぐ人材を置き続けた東芝。トップ人事が象徴するように、過去の誤りを認めて軌道修正できるかどうかに違いがあった。
それは、人と会社の関係と表裏一体だ。日立の経営陣が会社の目的に立ち返って経営したのに対し、東芝の経営陣は自身の功名心のために会社を動かしたのではなかったか。その結果、東芝は出直しを迫られ、社外からトップを招いて改革することになった。
いずれにせよ日立と東芝の「総合電機」という看板は掛け替えが進む。では、どんな方向に進もうとしているのか。両社のトップに聞いてみよう。
日経ビジネス2020年12月14日号 28~31ページより
この記事はシリーズ「日立と東芝 どん底を見た総合電機の行方」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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