サムスンは長く日本の技術を取り込み、米国型の経営を吸収してきた。独裁的と言えるオーナーの決断が加わることで、世界市場を牛耳る強者に成長した。だが、成功モデルが続くとは限らない。新たな勝ちパターンを生み出せるかが問われる。

9月20日。都内の味の素スタジアムで開いたラグビーワールドカップ(W杯)の開会式に、サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)副会長の姿があった。キヤノンの御手洗冨士夫会長の招きで来場したという李副会長は今年に入り、これ以外にも頻繁に日本を訪れている。
5月にはKDDIなどを訪問し、基地局設備の商談に及んだもようだ。日本政府による素材の輸出管理強化が発表された7月にも来日し、調達先と対応策を話し合っている。慶応義塾大学大学院で学んだ李副会長は日本語が堪能だ。朴槿恵(パク・クネ)前大統領側への贈賄事件で審理が続いており、表に出ることは避けているようだが、日本のサプライヤーの多くのトップと親しい間柄にある。
サムスンの経営を振り返ると、いつも日本がキーワードとして浮上する。1938年に食品と衣料を扱う三星商会を興した創業者の李秉喆 (イ・ビョンチョル)氏、その三男で87年に経営を引き継いだ李健熙(イ・ゴンヒ)会長はいずれも早稲田大学に通った。後にサムスン電子として世界に飛躍する三星電子工業を69年に設立したのも、隣国に電機産業のお手本があったからだ。
「ほとんど毎週日本に行って半導体技術者に会い、彼らから少しでも役に立つことを学ぼうとした。その当時は、日本の技術者を土曜日に韓国に招き、三星(サムスン)の技術者に対し夜通し技術を教えてもらい日曜日に帰国させることも多かった」。李健熙会長は97年に自らこう語っている(『日韓関係史』、東京大学出版会刊)。
恐らくは70年代のことだろう。74年には韓国半導体という小さな会社の株式を取得し、半導体事業に進出した。当時の同社の技術はトランジスタを作れる程度。大規模集積回路の開発にはほど遠く、まず日本人技術者に教えを請い、技術の蓄積を始めた。

81年にはカラーテレビ用信号IC(集積回路)の開発に成功し、82年に半導体研究所を設立して半導体事業に本格的に着手した。90年代に入ると、日本からの技術者のスカウトを広げ、技術導入の水準を引き上げた。液晶パネルやリチウムイオン電池、完成品まで幅広い分野で多くの技術者を獲得していった。
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