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簡単な計算ができず、日本語の文章を読んでも十分に理解できない。世の中を生き抜く必要最低限のスキルのない社会人が、今後増える恐れがある。教育の劣化が背景にあり、強い人材を育てる仕組みの再構築が欠かせない。

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 2019年10月。JR高田馬場駅近くのビル内で、その“生徒”たちは一心不乱に答案用紙に向き合っていた。

 「8-0.23=□」「66.3÷1.3=□」

 「桃を24個ずつ箱に詰めたら12箱に なりました。9個ずつ詰めると何箱で きますか」

 小学校高学年レベルの算数のようだが、格闘しているのは小学生でも中学生でもない。10年も20年も前に義務教育を終えた“大の大人たち”だ。

消費税計算、銀行員も苦戦

マミオンが運営する大人のための算数・数学教室「大人塾」。大卒の大手製造業・サービス業の現役社員も通っているという。「徹底した基礎固め」と独自のスライドを活用した「気軽に楽しく算数を学べるカリキュラム」がある

 パソコン教室運営のマミオン(東京・新宿、森万見子社長)が「大人のための算数・数学教室『大人塾』」を始めたのは11年秋。当初、受講生は月に数人だったが、現在はオンライン講座を含めて年間1000人以上が門をたたく。学び直すのは昇格などの試験を控えるためで、ほとんどが大手製造業やサービス業で働く現役の社員だ。

 「つい先日も大手金融機関で新入社員200人に8%の消費税の計算をさせたところ、半数が税抜き価格に1.08を掛けることができなかった。これが日本の現実」と森社長は明かす。大人になって初めて算数の大切さに気付く人々が増えている現実に、こんな不安を感じる方もいるに違いない。「そもそも日本の教育は大丈夫なのか」と。

 明治期から100年以上の歴史を持つ日本の教育。とりわけ戦後の日本型教育はあまねく学びの場を提供できるシステムとして国際的にも評価されてきた。 もちろん課題もあり、例えば画一的な教育の結果、米国の飛び級のような「できる子がその才能を一段と伸ばす環境」に乏しいとの批判はその一つ。最近では、「ギフテッド」と呼ばれるIQ130以上の子供たちが周囲から疎外される「浮きこぼれ」も問題になりつつある。

 それでも、社会で生き抜く必要最低限の知識をできるだけ多くの人に植え付けるという意味では、日本の教育は世界トップクラスだと思うはずだ。だが「引き算や割り算を学び直す大人たち」の存在は、そうした楽観を突き崩すと言える。実は「普通の人材になるためのスキル」の教育さえ十分できなくなりつつあるのではないか……。この仮説が正しければ、事は学術論文の数が減るどころでは済まず、日本企業の競争力そのものに当然、影響を及ぼす。

 懸念は顕在化しつつあり、スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」は10月、19年の国際競争力ランキングを発表。日本の総合順位は141カ国・地域の中で6位と、前年の5位から1つ落とした。5月にはよりショッキングな報告が出た。同じスイスの有力ビジネススクールIMDによる「2019年版世界競争力ランキング」だ。

 それによると、日本の総合順位は過去最低の30位となった。シンガポール(1位)、香港(2位)などの背中はほど遠く、中国(14位)やタイ(25位)、韓国(28位)も下回る。かつて4年連続で世界1位だった日本の面影はない。

足を引っ張る生産性の低さ

 各評価項目で「ビジネスの効率性」は実に46位、企業の生産性と競争力の低さが足を引っ張っていることは明白だ。原因分析と取り組むべき課題についてIMDの見解はシンプルで明快だ。「Work-style reform and human resources development」。働き方改革と同時並行で人材開発を一層進める必要があると強調する。

 では、日本が上位の座を狙うためにどのような人材の育成を強化すべきか。ヒントは、経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査PISA(ピサ)の成人版PIAAC(ピアック)にある。16~65歳の約15万7000人の調査から導き出せるその人材は次の3種。①仕事に最低限必要な「読解力」を持つ人材②仕事に最低限必要な「数的思考力」を持つ人材③仕事に最低限必要な「IT活用力」を持つ人材──である。

 その程度なら大半が身に付けていると思うかもしれない。だが、PIAACの結果を見る限り楽観は禁物。日本人の現役世代の27.7%は「日本語読解力の習熟度がレベル2以下」で、例えば「図書館で目録を指示通りに検索し、指定された書名の著者を検索できない可能性」が高い。

 数的思考力でも36.3%が「習熟度レベル2以下」で、例えば「立体図を見ながら、その立体を分解すればどんな平面図になるか想像できない恐れ」がある。IT活用力でも53.6%が「習熟度レベル2以下」。「届いたメールの文面から情報を読み取り会議室予約を代行することが難しい」。そんな懸念がある。

 どんな職種でも上司や顧客など「相手の言葉を理解する読解力」が欠かせない。生産ラインであれ営業現場であれ「時間や生産量を管理する数的思考力」が不可欠だ。IT化が進むオフィスでその活用力が問われない日はない。

 もっとも、国際比較では日本の状況はさして悪くない。「読解力」の平均点は296点とOECD平均(273点)を上回り1位。しかし日本は、日本で生まれ日本語を母語として育つ子供の割合が高く、移民の比率が高い国や多言語国家に比べ、「読解力」調査などではもともと有利な立場にある。「十分なアドバンテージがあるにもかかわらず、10人中3人が読解力が低いという現実を深刻に受け止めるべきだ」。教育に詳しい専門家ほど悲観的だ。

 人手不足と人材難による企業競争力の低下が指摘される日本。だがそれを下げているのは、天才や異才の不足というより、企業の現場で、上司の指示を理解し効率よく正確に作業を遂行する“普通の人材”の不足である可能性が見えてきた。

日経ビジネス2019年10月28日号 38~45ページより