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人々が国を離れて流動化しつつある世界で、「選ばれる国」を目指すのがエストニアだ。同国の最大の武器は、オンラインでの電子的なやり取りを円滑化する「信用のインフラ」。自国民のために磨き上げてきた行政サービスを世界に開き、仮想的な市民を集め始めた。

 欧州とロシアに挟まれたバルト3国の一つ、エストニア共和国。人口は長崎県と同規模の132万人で、面積は九州地方ほどの大きさだ。中世から近世の街並みが残る首都タリン市の旧市街は観光客でにぎわうが、都市部を少し離れれば森林や農村がどこまでも続く。

エストニアの首都タリン市には、同国の人口のおよそ3分の1にあたる40万人が住む

 そんな小国が2017年8月、世界中の注目を集めた。政府機関の一つである「Eレジデンシー」が、国家が発行する初めての仮想通貨「エストコイン」の構想を発表したからだ。

 「『エストコイン』という名前は現時点では理にかなうが、長期的には適切でないかもしれない。エストニアよりはるかに広く使われるようになる可能性があるからだ」。当時Eレジデンシーの執行トップを務めていたカスパー・コルユス氏はブログにそう書き記した。

「個人にひも付いた通貨」を構想

 エストコインはあくまで一種の思考実験で、政府が正式に開発を始めたものではなかった。しかし「小国が発行した独自通貨がインターネットで世界中に広がる」という構想の衝撃は大きく、発表から1カ月後には欧州中央銀行のマリオ・ドラギ総裁が「欧州連合(EU)加盟国は独自の通貨は導入できない」とくぎを刺すまでに至っている。現在、検討はほぼ停止しているが、エストコインをきっかけにエストニアに関心を持った企業や個人は少なくない。

 Eレジデンシーのマーケティング責任者アレックス・ウェルマン氏によれば、エストコイン構想の中核にあったのは「公的な個人ID(身分証明書)にひも付いた仮想通貨」というアイデア。エストコインを身分証明書の代わりに使う、利用者間の資金の流れを可視化するといった可能性を模索していた。

 このような通貨をエストニアが求めた背景には、政府が14年に開始した「電子居住権(Eレジデンシー)」という計画がある。エストニア国民が持つ電子的な個人IDを他国の住民にも付与し、国外からエストニアでの法人登記や税務申告、法的文書のやり取りなどをオンラインでできるようにしたのだ。

 「物理的にどこにいるかに関係なく、サービスの観点で国を選べるようにすること」。ウェルマン氏は電子居住権の理念をそう表現する。国土と国民から成る現実の国家に重なるようにして、世界中の人々が参加できる国境なき仮想国家をつくる。前者の通貨はユーロだが、後者の通貨は必ずしも既存の通貨である必要はない。こうした「2層の国家」「2層の通貨」という将来像から、前代未聞の国家発行仮想通貨、エストコインの構想は生まれた。

「2層の国家」をつくる
●エストニアで実現しつつある「仮想国家」の概念図

 個人や企業が、サービスの観点で国を選ぶ──。裏を返せば、魅力のない国家は人々に見放され、淘汰されていくということだ。国を選べない人は往々にして経済力に乏しい人々だということを考えれば、選ばれない国の行政サービスは財源不足で劣化していく。

 だが、エストニアにはそんな世界を生き抜く勝算がある。顔の見えない相手と付き合い、取引をするための「信用のインフラ」を、同国は20年近く磨き上げてきたからだ。

日経ビジネス2019年9月30日号 48~51ページより