(写真=アフロ)
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 就活生の人気就職先ランキング上位に毎年軒並みランクインする大手総合商社。競争倍率は非常に高いものの、入社すればグローバルに活躍するチャンスは広がり、収入面でも30代前半で年収1000万円を超えるともいわれる。そんな恵まれた環境を捨てて退職する人間がいれば、多くの人は「若気の至りと言うほかない」と考えるに違いない。

 しかし昨年、大手商社を辞めた向井昭氏(仮名)の決断は、若気の至りどころか、長期的視点で人生計画を冷静に見直した結果のものだった。

 大学で発展途上国支援などを学んだ向井氏は、途上国経済を支えられる仕事として総合商社D社を就職先に選んだ。1年目はD社の自動車部門に配属となり、出資先である海外企業の事業管理などを担当した。

 自動車部門と言えば、総合商社の保守本流で非資源事業の花形だ。「同期では希望しても行けない人が多かった」と向井氏は話す。2年目には他地域を担当し、念願の途上国支援につながる仕事に関わることができた。

 その上で向井氏は、早くから自分自身の専門性も磨き始めていた。海外企業への投資や合併、リストラ、清算といった事務手続きを経験するうちに財務・経理面の管理業務に関心を持ち、3年目と4年目には投資の審査などを担当し、ベンチャー投資も経験。企業価値を評価するデューデリジェンスの力も身に付けた。

 しかし5年目に配属になったのは、船舶などの仕入れと販売というこれまでとは全く異なる部署だった。「企業買収や価値分析などの専門性を自分が磨いていることは会社も知っているはずなのになぜ」。そう疑問を持った向井氏だったが、2カ月後に転職したのは、会社の方針に腹を立てたからではない。「ビジネスマンとして自分の能力や人的資本を長期的に高めていくには、今は専門性を磨いた方がいい」と冷静に判断したためだ。

社内価値より社外価値高める

 転職先の大手企業で籍を置くのはベンチャー投資部門。ここでなら商社時代に培ってきたスキルをさらに積み重ねられる。商社に残れば社内価値は高まっていくが、どこでも通用する社外価値は身に付かないとの考えだった。

 総合商社のプロパー社員の年収は、30代を通じて大幅に上がり続け、多くの場合40代で1500万円を超える。特に優秀な社員であれば2000万円の大台に近づくケースもある。だが向井氏は、10年先の2000万円には釣られなかった。「いずれ転職するとしたら、強い専門性を持ち合わせていない40歳の商社社員が、同じ給与で他業種に移ることは非常に難しいだろう」(向井氏)と考えたからだ。

 それに対し、企業の財務・経理に関する知識と経験に長けた人材であれば、中年以降になっても、ベンチャー企業のCFO(最高財務責任者)など様々なキャリアプランを選択できる。一時的に収入が落ちても、その方が最終的に自分の価値を最大限に高められる。これが、向井氏が20代にして花形職業を脱ぎ捨てた理屈だ。

 向井氏は現在、CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)の投資家として、自社の事業領域にとらわれず広い分野でベンチャー企業への投資を担当する。他にも自社のM&A案件の審査や、新規事業創出を兼務するなど、専門家としての活躍の機会は多い。「自分が出資したスタートアップを上場まで導くのが現在の目標」と向井氏。転職時に自分で描いた通りに、スキルを積み上げ続けている。

 毎年辞めていく3割の若者の中に、若気の至りで退社の決断を下す人が多数含まれるのは否定できない。だが、有望な人材の中には、向井氏のように戦略思考によって安定した企業を飛び出す人が少なからずいるのも事実だ。

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