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自由な村田製作所の風土が失われかけた時期があった。2000年代のこと。村田製作所はどうやってこの“危機”を乗り切ったのか。

 「ぶっちゃけてしまえば、顧客から嫌われていたし、社内では自由にモノが言えない雰囲気だった」。ある幹部社員が村田製作所の「暗黒史」を明かす。

 きっかけは2000年代初頭のIT(情報技術)バブル崩壊だった。

 米マイクロソフトのOS(基本ソフト)「ウィンドウズ」、携帯電話機の普及、そしてデジタル家電の登場──。1990年代後半のITバブルは、積層セラミックコンデンサーやSAWフィルターといったこれらの製品に欠かせぬ電子部品を手掛ける村田製作所にとってまさに業績拡大の絶好の機会だった。

 ITバブル崩壊直前の2001年3月期の連結業績は、売上高が前の期比で1000億円以上拡大、営業利益率は29.8%。驚異の収益力を見せつけた。

きっかけはITバブル崩壊

 だが、ITバブル崩壊で村田製作所にも成長鈍化の足音が迫った。02年3月期の売上高は前の期比3割減だったが、黒字は何とか確保した。翌03年3月期は、売上高がほぼ横ばい。7%増となったTDKなどライバルの電子部品大手が順調に業績を回復させる中で、村田製作所の動きは鈍かった。04年3月期の業績も伸び悩んだ。

 「何が原因なのか」。その頃の役員会議の議論で噴き出した各役員の言葉は辛辣だった。「自己肯定が強すぎる」「組織が硬直的で柔軟性やスピード感がない」「CS(顧客満足)の意識が薄い」「モノづくりを大切にするという価値観の希薄化」「指示待ち・保守的・否定的」──。現場に権限を委譲し、一人ひとりの能力を発揮しやすい環境が整う今からは想像もできない空気が社内に蔓延していたことがうかがえる。

 ITバブルによる急激な需要拡大がアダとなったのは間違いない。兵たんが伸び切り、現場には余裕もなくなる。それでも注文だけは増える。「ある意味で殿様商売になり、顧客と向き合わなくなったことで嫌われた」とある社員は明かす。こうして創業以来の自由な雰囲気はなくなっていった。

 「このままでは会社はアカンようになってしまう」。創業家の村田恒夫会長兼社長(当時は副社長)や藤田能孝副会長(当時は上席常務執行役員)ら、当時の経営陣は危機感を強めた。

 原点回帰。創業者の故・村田昭氏が定めた社是を思い返し、村田製作所が大切にしてきた自由な風土を取り戻すための改革に乗り出す。社内に「組織風土改革委員会」を立ち上げ、「CS指向」に「現場指向」「環境変化へのスピード対応」「自由闊達な議論で創造性やチャレンジ精神を重視」する風土を作ることを目指した。

創業者である村田昭氏も現場をしばしば訪れ、開発者とともに喜怒哀楽を分かち合った

 もっとも、経営陣が「風土改革」を掲げるだけで変わるなら苦労しない。今は自ら風土改革の旗を振る企画管理本部副本部長の宮本隆二上席執行役員も、当時は事業部門に属していたこともあり、「取り組みそのものにまったく興味がなかった」と打ち明ける。

 それでも経営陣は諦めなかった。07年に3代目として就任した村田社長や藤田副会長など経営幹部が事業部訪問などで登壇する際に真っ先に話すのは風土改革。しつこく、語り続けた。

 頭ごなしには話さない。始まりはいつも「今日は集まってくれてありがとう」と感謝の言葉。「正しい状態にすることが上の仕事だと気づいたんです」と、反省を口にしながら自らの気づきを従業員に赤裸々に語る。こうした対話を何度も繰り返したという。

 「社員が幸せな会社」の代表格とされる伊那食品工業に全役員が訪れ、風土改革を徹底的に話し合う合宿もしたという。リーマン・ショックで162億円の営業赤字を計上した時も、「風土改革の旗を降ろさなかった」と藤田副会長は振り返る。

 「トップは本気なんや」。当初は興味がなかった従業員たちも、徐々に経営陣の話を聞くようになる。ジワリジワリと浸透する形で10年がかりで、現在のような自由な雰囲気の風土を取り戻した。

日経ビジネス2019年6月3日号 42~43ページより