「売られた社員」の運命を最も左右するのは、会社売却のタイミングだ。自分で育てた会社でも売るべき時に売る。そんな経営者の決断が社員の幸せを呼ぶ。会社は経営者のものであるようで経営者のものではない。

「『会社を売ることなど絶対にない』。そう思って経営に打ち込んできた。だが経営環境が変わる中、どこにも買ってもらえなくなる前に売却を決断した」。大分市を拠点に23の調剤薬局を展開する永冨調剤薬局の永冨茂社長はこう話す。
永冨社長は2019年初、妻と2人でほぼ100%保有していた会社の株式を東証1部上場のメディカルシステムネットワークに約32億円で売却。大手の傘下に入った今も、社長として陣頭指揮を執り続けている。
直ちに売らねばならない事情など何もなかった。息子が専務として共に働いており、後継者問題とは無縁だ。経営も順調で、従業員127人(4月時点)ながら18年9月期の売上高は約37億円、純利益が1億円強という状況。何より会社に愛着がある。
福岡大学薬学部を卒業した後、明治製菓の医薬情報担当者や大分赤十字病院の薬剤師を経て30歳で独立、その後37年、苦労を重ね会社を成長させてきた。永冨社長自身、「医療関連は高齢者の増加で縮小リスクが少ない」と考えており、中小企業のM&Aが盛んに伝えられる中でも「うちは関係ない」と息子に言い続けていたという。
盤石でも売却の真意
そんな心境に変化が訪れたのは昨年春、M&A仲介ビジネスを手掛ける日本M&Aセンターの幹部と会い「どんな業界でも再編で大手に集約される」という話を聞いてからだ。
そう言われると、ここ2~3年、気になる点もあった。政府の医療費抑制方針もあって薬価と調剤報酬が下がり利幅が減りつつある。薬剤師不足も深刻化の一方だ。大分県には薬科大学がなく、薬剤師の確保が難しい。薬剤師が採用できなければ当然、店舗増もままならず、人手不足による労働条件の悪化で既存の薬剤師から不満も出る。
さらに、永冨調剤薬局は永冨社長が地元医師とのつながりで始めた経緯もあり、大半の店舗が地元の診療所の前にある。診療所の医師が軒並み高齢化しており、後継ぎ不足で診療所閉鎖が続出しかねない。
「いずれ大手に属さないとやっていけなくなる時代が来るのかも。傘下に入るなら早い方がいい」。決めたら行動は早かった。数カ月で複数の買収希望者と会い、最終的にメディカル社との交渉をまとめた。 永冨社長が売却の条件として提示したのは「①従業員の全員雇用と給与維持」「②社名の維持」「③自身の社長続投」の3つ。大分県市場への橋頭堡として永冨調剤薬局を高く評価していたメディカル社は承諾した。
契約締結は18年12月6日。永冨社長はその日に全従業員を大分市内のホテルに「勉強会」という偽の名目で集めており、そこで全てを告げた。後日、メディカル社の総務が来社して全従業員と面談し、給与が下がらないことなどを説明。買収されたことによる退職者は1人も出なかったという。
こうして新たな道を歩むことになった永冨調剤薬局と社員たち。その先にどんな未来が待ち受けているか今は誰も断言できないが、間違いなく言えることが1つある。永冨調剤薬局の社員が好条件で売却先に迎え入れられたのは、永冨社長が企業価値の高いうちに売却を決断したから、だ。
「M&Aの現場にいて感じるのは、もっと早く売るべきだったと思われるケースが多いこと」。数百件の会社売却に関わってきた公認会計士・税理士の高谷俊祐氏はこう指摘する。
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