GM、フォードと提携交渉

 鮎川は違った。GMやフォードと手を組み、海外の最新の機械設備や部品の供給を受けながら、国産車の技術水準を高めようと考えた。実際、破談にはなったが、30年代前半に両社と提携交渉をしている。

 戸畑鋳物で自動車部門を立ち上げる時も、米国人エンジニアを迎え入れている。さらに国産車開発で先行した快進社自働車工場の流れをくむダット自動車製造を31年に吸収。外部の人材や技術を取り入れながら、事業参入を果たした。のちに日産を代表する小型乗用車「ダットサン」にも、もともと快進社が14年に完成させた「ダット自動車」のノウハウが生きる。

 鮎川が後世に残る経済人として歴史に刻まれるのは、満州(現在の中国東北部)開拓に乗り出したことが大きい。満州に侵攻していた関東軍の要請に応える形で、自ら率いる日産コンツェルンの純粋持ち株会社、日本産業を本社ごと新京(現在の中国吉林省長春)に移転。未開拓の地、満州で工業振興の推進役を買って出た。

 37年の日中戦争の勃発などで、国内で増税策がとられたことで、日本産業の利益が急減、満州での税制優遇を保証されたことも、鮎川が満州進出を決めた要因だ。ただ、その時も、満州開拓のためには外資導入が不可欠と鮎川は主張、軍部に受け入れさせた。この構想は結局は関東軍や陸軍の反発にあって実現はしなかったが、グローバルに物事をとらえる鮎川の姿勢は、統制力が強まる戦時中でも変わらなかったことを物語る。

 鮎川は戦後、A級戦犯の容疑がかけられ、2年弱にわたって巣鴨拘置所に収容されたが、容疑が晴れた後も日産に戻ることはなかった。その後はエネルギー問題や中小企業育成に関心を持ち、政治家に転身。帝国石油や石油資源開発の社長も務めた。

 強力なリーダーシップの下で、日産コンツェルンを巨大化させてきた鮎川。傘下にあった日立製作所や日本鉱業(現JX金属)、日本水産など、今も事業を続けている企業は少なくない。その中で、日産にゴーンが舞い降りた。

 ブラジルで生まれ、レバノンとフランスで学んだゴーンも、国籍や人種、性別を気にしない経営者だった。ルノーと日産によるアライアンスも、異なる文化や歴史を持つ2社の互いの強みを引き出しながら、競争力を高めることを狙った。

 必要とあれば、外部企業と連携することもいとわない。自前主義にこだわるのではなく、その時々に必要な技術や人材を生かしながら、自ら先頭に立って世界で販売規模を拡大してきた。こう見ると、ゴーンと鮎川の考え方には似通った点が少なくない。

 鮎川を創業者に持つ日産をゴーンが率いるのは、単なる偶然にすぎなかったのか。少なくとも、ゴーンを迎えた日産には強烈なリーダーシップを発揮する経営者をトップに据える必然があった。日産が内包する3つの体質が、ゴーンを呼び寄せることになった。

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