カルロス・ゴーン氏の「独裁」を許した日産自動車。単にゴーン氏の力が強かったことだけが理由ではない。歴史とOBの証言から見えてくるのは、ゴーン事件が日産で起きた必然だ。=敬称略

日産自動車はかつての日産コンツェルンの中核企業だった
●日産自動車の系譜図
日産自動車はかつての日産コンツェルンの中核企業だった<br><small>●日産自動車の系譜図</small>
(写真=右上(荷車)、右下(ダットサン):国立科学博物館)
[画像のクリックで拡大表示]

 1999年、経営難の日産自動車に落下傘のように送り込まれたカルロス・ゴーン。20年かけて取り組んできたのは、グローバル経済の枠組みの中で、自動車産業の勝ち組になることだった。

 歴史をひもとけば、日産はグローバル化を受け入れる素地がある会社だ。創業者が目指したのは優れた技術や人材を世界から受け入れ、日本の産業発展につなげること。戦中の統制経済下でも、自由貿易体制の必要性を説いた。

<span class="fontBold">日産の源流企業を創業した鮎川義介はグローバリズムの体現者といえた</span>
日産の源流企業を創業した鮎川義介はグローバリズムの体現者といえた

 その創業者の名は鮎川義介。日産という会社を知る手掛かりとして、まずは鮎川が何者だったかを振り返ろう。

 生まれは1880(明治13)年。長州藩士の家柄で、母方には伊藤博文政権下で外務大臣になるなど、政界で活躍した井上馨がいた。東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)で機械工学を学んだ後、一職人として芝浦製作所(現東芝)に入社。その後、米国に渡り、鋼管製造に役立つ鋳物成型技術を2年ほどで習得した。その技術の国産化を狙って、帰国後の1910年に今の北九州市戸畑区で井上らの資金援助を受けて設立したのが戸畑鋳物だ。この会社が日産の源流となる。

 エンジニアとしてモノづくりに懸ける思いがあったのだろう。創業地の跡地には今もひょうたんマークが記された碑文が残されている。「より強靭に、より滑らかに、より美しい曲線に」。そんな願いがこのマークには込められているという。戸畑鋳物が前身の日立金属では今も水用配管機器などで、このひょうたんマークを使っている。

 もっとも、鮎川は自らの技能を磨き、モノづくりを極めるエンジニアでは終わらなかった。むしろ、外から良いものを積極的に取り入れる意欲が強かった。自動車事業に進出した際にも、鮎川のそんな姿勢がうかがえる。

 23年の関東大震災後、日本では鉄道に代わる輸送手段として自動車に対する関心が高まっていた。需要拡大を見越して、米ゼネラル・モーターズ(GM)や米フォード・モーターが日本で組み立て工場を設け、販売を拡大していた。当然、海外勢に対抗意識を燃やす日本人事業家も少なくなかった。国立科学博物館の鈴木一義氏によると、1938年には外資系メーカーの国内生産台数は国産車の1.5倍あったという。

続きを読む 2/5 GM、フォードと提携交渉

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り6722文字 / 全文6789文字

日経ビジネス電子版有料会員になると…

特集、人気コラムなどすべてのコンテンツが読み放題

ウェビナー【日経ビジネスLIVE】にも参加し放題

日経ビジネス最新号、10年分のバックナンバーが読み放題

この記事はシリーズ「シリーズ「会社とは何か」 日産の正体」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。