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 その男は、都内の貸し会議室に、カバン片手に一人でふらっと入ってきた。その姿は、かつて巨大銀行のトップとして、日本の金融界を揺るがす騒動のど真ん中に立っていたことを感じさせない、飄々とした風貌だった。

葬儀場支配人

 東郷重興。

 日本債券信用銀行の「最後の頭取」として、金融危機の荒波の中を舵取りし、最後まで破綻回避に向けて奔走した。だが、1998年、政治判断で破綻処理が決まる。90年代「バブル崩壊」の時代を象徴する出来事でもあった。

 不動産融資の「総量規制」や、日銀の急速な公定歩合引き上げで、銀行は資金繰りに行き詰まっていく。「護送船団方式」を重んじていた大蔵省も銀行への態度を変えていった。そして98年、日本長期信用銀行と日債銀が崖っぷちに追い込まれる。その2年前、日本銀行にいた東郷に、まさかの人事が下る。

 96年5月、連休明けのある日、当時日銀副総裁だった福井俊彦さんの部屋に呼ばれ、日債銀への転出を告げられました。「窪田(弘頭取)さんがおまえじゃなきゃ困ると言っている」という。私は“葬儀場支配人”として出されるのだと覚悟しました。

 東郷を日債銀に呼んだ窪田もまた、大蔵省から日債銀立て直しのために送り込まれた経営トップだった。日債銀が販売した金融債がデフォルトすれば、日本企業の債券はおろか国債の信用まで失われかねない。大蔵省はそれを恐れていた。

 東郷にまず課された使命は、当面の資金繰りだった。

日本債券信用銀行元頭取
日債銀の最後の頭取、東郷重興。粉飾の疑いで逮捕されるも、2011年に無罪判決を勝ち取る。現在は医療大学を運営する学校法人の理事長(写真=尾関 裕士)

 窪田さんから、「とにかくカネを集めてくれ」といわれました。日銀出身の私が行って頭を下げれば、恩を売っておこうとするだろう、と。その読みは当たりました。私は日銀で国際局長だった頃、為替介入で円高を阻止し、彼ら(銀行)を助けたこともあったんで。

 97年4月には、さらに困難な任務が下りました。「2900億円の増資をするから、引受先を7週間後の株主総会までに探してくれ」と窪田さんが言う。それで、都内にある35の金融機関を1週間に1回のペースで訪ね、カネを出してくれ、と。単純計算すると、1日5社回るわけです。周りからは「大変なことをさせられていますね」と同情されました。私はクルマに乗って回っていただけなんですがね。

 東郷には水面下でもう一つ、重要な任務があった。生き残りをかけた合併交渉だ。98年12月、中央信託銀行との合併が、発表寸前まで進んだ。ところが、会見前日にどんでん返しが待っていた。大蔵省に情報が漏れ、「待った」がかかる。経営状態が比較的健全だった中央信託は、大蔵省にとって、金融機関の救済に使える数少ない手札だった。結局、大蔵省は三井信託の救済を優先させ、同行と中央信託を合併させた(注:その後、住友信託とも合併し、現在の三井住友信託銀行になる)。

「バブル退治」が金融機関の破綻連鎖となった
●株価と公定歩合の推移と金融年表

 次第に、日債銀は追い込まれていく。背景には資金の調達方法の変化もあった。80~90年代にかけて、企業は増資など直接金融で資金を調達するようになっていった。長期債を発行して、企業に長期融資を実施する業態に対する「不要論」がくすぶっていた。

「生きていてはならん」

 長銀の大野木克信頭取(当時)は、よく知ってますよ。お互い、生きるか死ぬかの状態ですから。ある時、大野木さんから電話があって、「手形が落ちなくて、3時間後までに500億円、何とかしてくれ」と。「分かった」と言って、片っ端から電話して、「すぐに長銀に出せる資金は残ってないか」って。

 日債銀は長銀よりカネがあったんです。でも、長銀が98年10月に公的管理になった途端に、「同じ長期信用銀行の日債銀も生きていてはならん」とレッテルを貼られてしまった。どうあがいても、流れは変えられませんでした。 

 ドミノ倒しのように金融機関が破綻に追い込まれていく中、その連鎖を防ぐチャンスもあったと東郷は考える。98年春、大手行に対する公的資金注入を検討した金融危機管理審査委員会(通称佐々波委員会)だ。