英アームが買った男

芳川裕誠

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 「ソフトの世界で日本が世界のリーダーだったことは一度も無い。自分たちのソフトを世界中の人たちに使ってもらおうとするなら、シリコンバレーで起業し、米国市場で勝負するしかなかった」。2011年に日本人3人で米トレジャーデータを起業した。

 ソフトバンクグループ傘下の半導体設計会社、英アームは18年8月、トレジャーデータを6億ドル(推定、約660億円)で買収。トレジャーデータが提供するビッグデータ分析のクラウドサービスはアームの一部門となった。今の芳川は同部門のトップとして、アームが設計したプロセッサーを搭載する数億~数十億の端末が生み出すデータを対象に、ビッグデータ分析サービスを世界中に売り込む。

 ビッグデータ分析は長らく巨大企業でなければ手が出せない領域だった。高価なコンピューターやデータベースソフトを購入し、それらの運用に長けた専門家を雇用するために、年間で数億円の費用がかかったためだ。それに対してトレジャーデータなら、年間2000万円ほどの費用でビッグデータ分析を始められる。ビッグデータ分析のコストを1桁下げた。

 もう一つ芳川が誇りとするのは「OSS(オープンソースソフトウエア)の新しいビジネスモデルを生み出したこと」。ソフトの設計図に当たる「ソースコード」が公開され、誰でも無償で利用できるOSSの世界にはこれまで、「有料サポート」と呼ばれるビジネスモデルしか存在しなかった。18年10月に米IBMが340億ドル(約3兆7000億円)で買収すると発表した米レッドハットが生み出したもので、企業がOSSを使う際のトラブルを解決することで収入を得る。

 それに対してトレジャーデータが生み出したのは、OSSを新規顧客獲得に使うビジネスモデルだ。同社が開発したのは、様々なコンピューター上で発生したデータを分析しやすい形式に変換した上で収集する「Fluentd(フルーエントディー)」というOSS。データを収集する先はトレジャーデータのクラウドでなくても構わないが、「Fluentdを使ったユーザーが数%でもトレジャーデータの顧客になってくれれば、それでソフトの開発費はペイできる」(芳川)という仕組みを作った。

 実際にFluentdは、米グーグルや米マイクロソフトが使い始めたことでデータ分析の世界における著名OSSとなり、トレジャーデータに数多くの新規顧客ももたらした。「日本にもOSSに熱意を持っている開発者は数多くいる。我々の存在が彼らにとっての希望になってほしい」

折れない連続起業家

加藤 崇

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(写真=Kai Hirota)
(写真=Kai Hirota)

 米国では2050年までに、既存の水道管の更新に1兆ドル(約109兆円)もの費用がかかるとされている。水道管の寿命は「平均100年」。20世紀前半までに全米に整備された水道網の全面刷新が迫っている。

 「我々が開発した水道管劣化分析AI(人工知能)は、1兆ドルを4割削減することを目指している」。米シリコンバレーのAIスタートアップを率いる加藤は言う。

 水道管の100年という寿命はあくまでも理論値であり、実際には50年で壊れることもあれば、200年もつこともある。フラクタが開発したAIは、水道管を敷設した場所の土壌や人口密度、交通量、海岸からの距離といった1000項目以上のデータから水道管の劣化具合を予想する。もうすぐ壊れる水道管だけ交換できれば、交換費用の節約や漏水の予防が可能になる。既に米国にある31の水道局や水道会社がフラクタのAIを導入した。

 加藤がフラクタの前身となる会社を米国で起業したのは15年。昨年5月には水処理装置大手の栗田工業がフラクタの株式の50.1%を40億円で取得した。今後は栗田工業の子会社として、AIを全世界に売り込む。

 フラクタは加藤にとって2回目の「エグジット」だ。加藤が12年に東京大学の研究者と起業した人型ロボットスタートアップのSCHAFTは、13年に米グーグルが買収した。10年に満たない間に2度のエグジットを成し遂げた連続起業家は、シリコンバレーでも珍しい。

 すべてが順調だったわけではない。大きな方向転換を余儀なくされた。渡米した15年当初に加藤が目指していたのは、日本のスタートアップが開発した小型ロボットを石油パイプラインの内部検査用に売り込むことだった。しかし検査対象を石油パイプラインからガスパイプライン、そして水道管に変更しても、事業化のめどは一向に立たなかった。当時はロボットがパイプの中を走行して取得したデータを基にAIを開発することを目指していたが、それだけではデータ量がまったく足りなかった。

 そこで加藤は17年、既にあるデータだけを使ってAIを開発する方針に転換した。「ロボットで有名になった自分がロボットを捨てることには、じくじたる思いがあった」。だが、これが功を奏した。

 「シリコンバレーでは方向転換を『ピボット』と呼び、挫折ではなく前向きな行為と尊重する。楽観的なこの地だからこそスタートアップが成功できる」。米国で起業した加藤の見立ては正しかった。

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