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 スティーブ・ジョブズが禅思想の影響を受けたことはよく知られています。有名なスタンフォード大学卒業式での講演(2005年6月12日)──「Stay Hungry. Stay Foolish」と呼びかけた感動的なスピーチ──もそうですが、折々の発言や仕事に向かう集中力、またアップル製品のシンプルで、研ぎ澄まされた美意識は、禅の思想や修行によって鍛えられたものだといわれます。このように禅の思想に深く傾倒したジョブズが「生涯の師」と仰ぎ、30年の長きにわたって魂の交流を続けた特別な存在が、『宿無し弘文』の主人公、乙川弘文(おとがわこうぶん)という日本人僧侶です。

『宿無し弘文──スティーブ・ジョブズの禅僧』
柳田由紀子著
1900円(集英社インターナショナル)

ジョブズが「生涯の師」と仰いだ日本人禅僧の実像とは? 関係者の証言が浮き彫りにする「泥中の蓮」の真実。

 新潟県の名刹に生まれ、京都大学大学院で仏教学を学び、27歳で曹洞宗の大本山、永平寺に上山します。やがて特別僧堂生に推挙され、宗門の期待を一身に集めるような存在になりますが、29歳の時、サンフランシスコ近郊に創建された北米での本格的な禅の修行道場を運営するために渡米します。時は1967年、ベトナム反戦、ヒッピー文化、カウンターカルチャー全盛の米国です。新たな精神的価値を求める若者たちの間で禅がにわかに注目されます。弘文が赴任する前年には、後にシリコンバレーと呼ばれる町にスティーブ・ジョブズ少年が転居してきます。