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 偉い人がいたものである。江戸時代、文政年間から大正元年まで生きた医師・関寛斎。あまり有名とはいえないが、その人生はすごいの一言だ。

『評伝 関寛斎 1830-1912』
合田一道著
2800円(藤原書店)

時代の波にもまれつつ病気の人々を救おうと奔走した無私の医師の姿を、資料や現地調査を基に書き下ろす。

 上総の農家に生まれ、儒家に養子として入り、世の中の役にたちたいと、蘭方医学の塾兼診療所であった佐倉順天堂に学ぶ。とりわけ貧しい塾生であったが極めて優秀で、塾の創始者・佐藤泰然の弟子として、手術などの記録を「順天堂外科実験」に残している。

 泰然の推挙により、濱口儀兵衛商店(後のヤマサ醤油)当主・濱口梧陵に請われて銚子で医院を開業する。さらに、濱口の援助を受け、長崎でオランダ人医師・ポンペに学ぶ。そして一旦銚子へ戻るも、徳島藩に請われて典医となる。

 典医のうちただ一人の蘭方医とし相当に苦労したが、藩主・蜂須賀斉裕の信頼は厚かった。その藩主を看取った直後、戊辰戦争に官軍側で従軍する。奥羽出張病院頭取として、病院運営に苦労しながらも、敵味方なく治療にあたった。望めば新政府での栄達も可能だったが、徳島に戻り、徳島藩医学校を創立して校長に就任する。

 佐倉順天堂と長崎で共に学んだ友人、泰然の子・松本良順は、幕軍側で戊辰戦争に臨み、戦後に投獄される。戦後、自らが不利益を被ることを承知で、良順の赦免嘆願をおこなった寛斎。患者のために誠心誠意だっただけでなく、その男気ある意志も抜群に強かった。

 いくつかの問題から医学校の校長を辞し、そのまま徳島で開業する。そこでは、貧しい患者からは治療費を取らない赤ひげのような診療をおこない、「関大明神」とまであがめられていく。

 と、ここまででもかなりなのだが、さらにすさまじいのはここからだ。70歳にして、札幌農学校の学生であった四男・又一に共鳴し、北海道の開拓を志し、72歳で厳寒の地、北海道陸別町・斗満(とまむ)での開拓事業に乗り出す。

 トルストイに影響をうけ、徳冨蘆花と親交を結び、アイヌの人たちとも平等に暮らす理想郷作りを目指したのだ。しかし、家族との対立などがあり、82歳で服毒自殺。どうです? すごい以外の言葉が見あたらないでしょう。