判官(ほうがん)びいきという言葉も残るほど、歴史に名を遺した源義経。幼いころは、父の敵である平清盛を父と思い、慕っていたというエピソードも残っています。長じては兄、頼朝に尽くし、戦果を上げながらも頼朝に追われました。悲劇の武将といわれる義経は、なぜ、兄から認められなかったのか。その人物像を探っていきましょう。

「幼くして家族と別れ、寂しい境遇で育った義経は、苦労をしながら、生き延びてきたと思います」(加来氏)(画:中村 麻美)
「幼くして家族と別れ、寂しい境遇で育った義経は、苦労をしながら、生き延びてきたと思います」(加来氏)(画:中村 麻美)

 源頼朝は、完全に人間不信の人でした。自身を担ぐ坂東(ばんどう)武士団も、実の弟たちも、自分に取って代わろうとする政敵だ、と疑います。武士団の上総介広常(かずさのすけ・ひろつね)や一条忠頼(いちじょう・ただより)は誅殺(ちゅうさつ)し、弟の範頼(のりより)は伊豆に流刑、義経は追討しました。

 対して源義経は、人を信じては裏切られ続けています。義経の思い違い、勘違いも多かったのですが、本人は裏切られたと強く恨んでいたことでしょう。

 義経は物心ついたころ、自分の父親は平清盛(たいらの・きよもり)だ、と思っていたかもしれません。

 義経は平治元(1159)年に、源義朝(よしとも)と常盤御前(ときわごぜん)の間に生まれました。しかし、義朝は同年に起こった平治の乱で敗走し、翌年殺害されています。義経に父・義朝の記憶は、ありません。

 母の常盤は絶世の美女で、清盛はその美貌に心を動かされ、家を持たせて妾(めかけ)の一人にします。乳飲み子だった義経は処刑や流刑を免れ、常盤と一緒に暮らします。足しげく通う清盛を、幼い義経が父親だと思っても不思議はありません。

 常盤は、清盛との間に女の子を産みますが、清盛は常盤を公家の大蔵卿(おおくらきょう)・一条長成(ながなり)のもとに再嫁させます。そのとき義経は、初めて清盛が父親ではない、と知ったのです。

父と慕った清盛は敵だった

 常盤が長成と結婚すると、義経は新しい父親とうまくいかず、7歳(異説あり)で鞍馬寺(くらまでら)に預けられます。義経は父と慕った清盛にも、愛してやまなかった母にも捨てられた、と思うわけです。

 室町時代に成立した軍記物語『義経記(ぎけいき)』には、義経は、鞍馬寺の僧侶から自分が源氏の嫡流で、父だと思っていた清盛が敵(かたき)だと知らされ、怒り心頭に発し、平家打倒を決意したとあります。そうかと思うと、のちの小説には、平家打倒のために鞍馬寺で中国の兵法書を読み、剣術の修行に励んだと書いてあります。あるいは鞍馬の天狗(てんぐ)が出てきて、兵法を義経に教えたとも。天狗はさておき、人々の安寧(あんねい)を願う寺に兵法書が置かれているとは考えられません。

 承安4(1174)年、16歳の義経は僧となるよう出家を促されます。ところが彼は、これを拒んで鞍馬寺を出奔。同年3月3日桃の節句に、東山道・鏡(かがみ)の宿(現・滋賀県蒲生郡竜王町)で、自らの手で元服します。

 中世の武家社会では、元服の際、地域の有力者や父親の上司などが烏帽子親(えぼしおや)と呼ばれる後見人になります。前髪を落として髷(まげ)を整えた男子に、烏帽子をかぶせ、自分の名前から一字を取った諱(いみな、元服名)を与えるのです。

 義経は全て、自分一人でやりました。自分で前髪を落とし、自分で髷を結い、諱も自分で考えました。こんな孤独で寂しい元服はありません。

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