今回は大河ドラマでもおなじみの源頼朝を取り上げます。武家社会を到来させたとされる頼朝ですが、加来耕三氏は、頼朝には状況に応じたハッタリや覚悟、精神力があったと語ります。さらに鎌倉幕府が約150年続く政権となったことについて、頼朝の生き方が大きく関わっていたと指摘します。

「約700年にわたって続いた武家社会。その基礎を築いた源頼朝は、平家打倒など考えていなかったと思います」(加来氏)(画:中村 麻美)
「約700年にわたって続いた武家社会。その基礎を築いた源頼朝は、平家打倒など考えていなかったと思います」(加来氏)(画:中村 麻美)

 日本初の武家政権、鎌倉幕府を開いた源頼朝──。彼は、これ以降、700年近く続く武家政権の礎となる仕組みを構築するわけですが、彼には、通説とは異なる側面が多々ありました。

 まず、頼朝が平家打倒のために挙兵した理由が、通説とは異なります。

 後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が治承4(1180)年4月に出した令旨(りょうじ、皇太子などが命令を下達するための文書)を受けて立ち上がった、といわれますが、私は頼朝に、以仁王の令旨は直接は届いていなかったと思っています。

 そもそも以仁王は、頼朝のことを知らなかったでしょう。

 頼朝は13歳まで京で過ごしましたが、平治元(1159)年の平治の乱で父・義朝(よしとも)が敗れ、以来、令旨が発せられるまでの約20年間、伊豆で罪人として流人生活を送っていました。そのような人間を、以仁王が知っていたのでしょうか。

 仮に知っていたとしても、犯罪者に令旨を出すことなどあり得ませんし、兵を持たない者に挙兵を促すこともあり得ません。

 頼朝は令旨のことを、「諸国の源氏に令旨が出た」と触れ歩いた誰かから、聞いたにすぎなかったのではないか、と考えています。

 ところで以仁王は、令旨を発して何をやろうとしたのか。これは、その3年前の治承元(1177)年に起きた「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」をみれば分かりやすいと思います。

 鹿ヶ谷の陰謀は、平清盛を除こうとした、後白河法皇派のクーデター未遂事件です。「平家を討て」と、諸国の兵力を持つ豪族の源氏に、挙兵を促す予定でした。

 彼らが挙兵すれば、京にいる平家は当然、討伐軍を出します。すると京はカラになる。カラになったところを、畿内の源氏と僧兵で占拠する作戦だったのですが、断行直前の密告により企ては失敗しました。

 鹿ヶ谷の陰謀も以仁王の令旨も、後白河法皇が背後にいたことは同じです。3年たって、後白河法皇は以仁王を使って、鹿ヶ谷の陰謀の焼き直しをやったわけです。

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