関ヶ原の戦い後も、実は天下取りの野望を失っていなかった政宗。彼の遣欧使節団は、その最後の手段だった? そんな政宗が、ついに「秀忠を頼む」と家康に頼られる日が来ます。この日を迎えたのも、政宗の振る舞いによるものでした。政宗はなぜ、その時々でよりよい行動を取れたのでしょうか。加来先生と読み解いていきます。

伊達政宗は慶長6(1601)年、徳川家康の許可を得て、仙台に居城を移します。
当時の仙台は、産業らしい産業がないところでした。そこで政宗は、海外と交易をして、それによって財政を豊かにしようと考えたのです。
一方、家康は関ヶ原の戦いを経て、天下平定をあらかた終えていましたが、この頃はまだ西には豊臣秀頼(ひでより)がおり、東に政宗がいて、家康はその真ん中に置かれた形です。 家康としては、両者に挟まれている状況は怖いけれど、その現状をどうしたらいいものか、結論の下せない状態でした。
政宗は、海外交易を新しい経済政策とする案を家康に進言しました。
「これまでの南蛮貿易は、すべて堺止まりでした。新しい交易ルートを太平洋側につくりましょう」
と提案したわけです。
天下への野望を抱いた政宗
家康は交易によって仙台藩が財力をつけるのは困りますが、交易地の終着を江戸湾にするということで、政宗の話に乗ります。
政宗としては、江戸と仙台が貿易で富めばよいのです。では、交易の相手をどこにするか。政宗はスペインを交易の相手国と考え、さらにローマ教皇とつながりを持つことを考えました。
政宗は外洋船を建造し、家康の承認を得て、慶長18(1613)年に慶長遣欧使節、俗にいう支倉(はせくら)使節団をスペインとローマに派遣しました。使節団はスペイン国王やローマ教皇への、家康と政宗の親書を持参しました。政宗は事前に、親書を家康に見せて、許可を得ています。
ここで政宗は、使節団の1人であるスペイン人宣教師に、ローマ教皇に直接、伝えてほしい、と口頭でメッセージを託したといわれてきました。どんなメッセージだったのかは不明ですが、まことしやかにいわれている内容はこうです。
「仙台藩主の伊達政宗はキリスト教に改宗します。これからは教皇のもとで戦いますから、日本統一のために力を貸してください」
まだこのとき、政宗は天下への野望を持っていた、というわけです。
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