本多正信(ほんだ・まさのぶ)は、徳川家康が幕府を打ち立て、軌道に乗せていく場面で数々の大きな活躍をした武将です。正信は若き日の家康を裏切っていますが、それでも家康に信頼され、重用されました。前編では、家康が三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の国を治めるようになるまでの正信について、後編では、優秀な正信が犯した失敗について見ていきます。
徳川家康の家臣・本多正信は、家康の後半生に、その参謀として仕えた側近でした。家康は4歳年上の正信を「好物」と言ってはばからず、2人は主従を超えた、友情で結ばれた盟友でもありました。
家康が天下を取れたのも、多くは正信の働きでしたし、家康が征夷大将軍に就けたのも、正信の働きかけが大きかったといえます。家康が大御所となってからも側近として、また二代将軍・秀忠(ひでただ)の側近としても正信は仕えました。
しかし彼は、同じく家康に仕え、大いに貢献したとされる徳川四天王にも、徳川十六神将にも選ばれていません。四天王や十六神将は主に戦場で活躍した武断派の武将であり、正信は戦時には軍略、平時には国政をつかさどった文治派でしたが、理由はそれだけではありませんでした。
正信は、家康がまだ松平元康(まつだいら・もとやす)と名乗っていたころ、家康に背き、あろうことかこの主人を殺そうとした男だったため、家臣団からは冷たい目で見られていた人物だったのです。
松平家の鷹匠だった本多家
本多正信の家は曽祖父の代から、松平家に仕えていましたが、あまりに貧しかったためか、鷹匠(たかじょう)をして生活を支えていたといわれています。正信は幼いころから家康に近侍し、家康が今川家へ人質となった際は随行しています。

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いでは、今川義元(いまがわ・よしもと)の指揮下で戦う家康のもとで、正信も戦いました。そして義元が頓死すると、今川家から独立した家康に従い、正信も三河に戻ります。
家康が人質生活を送っていたころ、三河の地は、今川領に組み込まれていました。三河武士たちは、それぞれ「党」として独立していて、「党」の中の長(おさ)であった松平家、この家を維持するために上納する年貢と、今川家に納める年貢の、二重の徴収に苦しんでいました。武家とは名ばかりの貧しい生活を送りながら、それでも「若様」(家康)が戻ってくる日を待ちわびていたのです。
家康が墓参りなどで帰ってきたときは、うれしくて出迎えに行きたいのですが、着ているものがボロボロで家康の眼前に進み出て行けず、みな物陰から姿を見て泣いていたといいます。ところが、家康が独立して三河に戻ってきて、三河をまとめようとする矢先、国が分裂し、戦が起こります。「三河一向一揆」です。
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