黒田官兵衛の後編をお送りします。黒田家の家督は嫡男の長政が継ぎ、黒田家は大藩である筑前(ちくぜん)福岡藩を治めることになります。実は官兵衛が、長政のことを上手にサポートしていました。豊臣秀吉との間で犯した自分の失敗を反省し、官兵衛は晩年、息子までもが、時の天下人に疎まれることがないように策を講じていたのです。

 前回(「戦国屈指の軍師、黒田官兵衛が自らの不遇を招いた余計な一言(前編)」)、本能寺の変のことを聞いて、羽柴秀吉(はしば・ひでよし)が声を上げて泣き続けていたとき、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ=孝高〈よしたか〉)が秀吉を慰めようと言った、「秀吉殿、ご運が開けましたな」は余計な一言だったと述べました。これは「よかったではありませんか。これであなたが天下を取れますよ」と言ったのも同然ですが、なぜこの一言が問題だったのか。

 それは、秀吉も同じことを泣きながら、心中で考えていたからです。

 天下を狙うほどの人物の、頭の中は複雑にできています。秀吉は単に感傷的になって泣いていたわけではないのです。どうしたら、この逆境を跳ね返すことができるかを、泣きながら考えていたのです。横にいた官兵衛は、図星を指したわけです。

家康でも利家でもなく、官兵衛

 おそらく秀吉は、息が止まるくらい驚いたでしょう。天文6(1537)年生まれの自分より若い、天文15(1546)年生まれの官兵衛が、同じことを考えていたのですから、この男はいずれ自分にとって危ない存在になる、と確信したに違いありません。

 秀吉は、仮に自分が死んだら次に天下を取るのは、徳川家康(とくがわ・いえやす)でも前田利家(まえだ・としいえ)でもなく、2人より若い官兵衛だと思っていた、と伝えられています。秀吉は、「天下を取るには官兵衛が必要だが、天下を取ったそのあとは、最初に除かなければいけないのはコイツだ」と考えたわけです。

 黒田官兵衛は前回述べたように、山崎の合戦以降はほとんど合戦に送り込まれなくなりました。四国攻めには加わりましたが、このときも兵は率いず、将兵の監視役である軍監(目付)として行っただけでした。軍略会議への出番もなくなります。明晰(めいせき)すぎる頭脳を警戒され、秀吉に遠ざけられたのでした。

 ところが官兵衛は、天正14(1586)年の九州征伐には参加し、平定後に豊前の国の一部を与えられます。

 しかし、これにはとんでもない付録があったのです。それは豊前の元領主・宇都宮鎮房(うつのみや・しげふさ、城井〈きい〉鎮房)でした。

佐々成政のときと同じ手

 宇都宮氏は源頼朝(みなもとのよりとも)に奉行を任ぜられ、鎌倉時代から代々、豊前を治めていた豪族です。秀吉はその鎮房に、四国へ転封しろと言い、彼はこれに従わず怒って牙をむき、領内に勢力を抱えて居座っていました。そこに、官兵衛を送り込んだわけです。

 秀吉は、官兵衛が豊前を制圧できなかったら、腹を切らせようと考えていたふしがあります。