中国大返しで黒田官兵衛が打った手はこれだけではありませんでした。
毛利軍が本能寺の変を知れば、もちろん追いかけてきて打ち掛かってきます。そこで官兵衛は残って、備中高松(びっちゅうたかまつ)城を水攻めにするために築いた堤防を決壊させ、近辺を水浸しにして、追いかけてこられないようにしてから引き揚げていったのでした。
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