軍師・黒田官兵衛は、豊臣秀吉の天下取りに大きく貢献したにもかかわらず、晩年は秀吉に避けられ、目立った活躍が見られなくなります。そこには、官兵衛が秀吉につい言ってしまった“あの一言”があったことは、読者の皆さんはご存じでしょうか。なぜ、それを言ってしまったのか(前編)。後編では、その後、徳川家康の時代になって以降の、息子の長政との関係などについても見ていきます。
羽柴秀吉の軍師として活躍し、その天下統一に大きく貢献したのが黒田官兵衛(くろだ・かんべえ=孝高〈よしたか〉)でした。彼は、同じく秀吉の軍師だった竹中半兵衛(たけなか・はんべえ)と並んで、戦国屈指の優秀な軍師といわれています。
謎の多い中国大返し
官兵衛最大の功績は、明智光秀による本能寺の変の後、秀吉の「中国大返し」を成功させたことでしょう。
中国大返しから山崎の合戦に至り、秀吉軍は明智軍を討(う)ち破りました。数えれば、本能寺の変からわずか11日後のことです。
ですが、結果だけ見たのでは、私たちが歴史から学ぶことは何一つなく、勉強になりません。
問題は、わずか1週間程度でおよそ200kmもの距離を移動させた中国大返しが、なぜできたのかということです。あの時代、普通はできないことでした。
秀吉が率いた中国方面軍は2万7500でしたが、うち秀吉の直属の家臣団は5000しかいませんでした。
残りは織田信長に負けて、従うこととなった者たちばかり。中国方面軍は、かつて敵だった人間を含む混成部隊だったのです。
目前には2万5000の毛利(もうり)軍がいます。当時の記録を読むと、秀吉は、毛利軍を倍の5万だと思い込んでいたようです。が、いずれにしても秀吉の状況は切迫していました。さらに背後の畿内には、1万7000とも1万2000ともいわれる光秀の軍勢がいました。
人は明るいほうの道を選ぶ
もし私が混成部隊の将官の一人であり、秀吉の直属の家臣でなかったら、考えることは1つです。秀吉の首を取って、前の毛利軍を目指すか、後ろの明智軍に走るか、です。
さらに言えば、信長が本能寺で討たれたことを知れば、軍団はパニックに陥り、空中分解してもおかしくありませんでした。実際、関東方面軍を率いていた滝川一益(たきがわ・かずます)は、信長横死を知った瞬間、パニックになって動きが取れず、そこを北条氏政(ほうじょう・うじまさ)に攻め込まれて、ほうほうの体で逃げ帰っています。
では、このような状況でどうすれば中国大返しができたのでしょうか。
官兵衛はまず、自軍内に噂を流しました。「秀吉様が光秀を討ったら、上様(信長)に代わって秀吉様が天下を取る。秀吉様が天下を取ったら、将校は大名に、足軽は将校になれるぞ。こんなすごいことがあっていいものか」
人間は、同時に2つの道が示されると、暗いほうより明るいほうを取るものです。秀吉の首を取って他家に走るという暗い道と、自分の力で階段を駆け上り、未来を切り開くという明るい道の2つがあれば、明るいほうを普通は選ぶでしょう。
かつて敵だった者も、みなその話に乗ったからこそ、中国大返しは考えられないほど凄(すさ)まじい速さでなされたのです。秀吉が鞭(むち)を振るって「走れ、走れ」などとやったりはしていません。みな自発的に、「己れの欲」で走ったのです。これが、中国大返しの成功した理由です。
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