創業300年超の老舗の13代目が工芸のSPA(製造小売り)を立ち上げ、店舗を全国展開。子供時代にまったく無関心だった家業。大手企業を経て「転職先」に選んだが、父は入社を断った。深く頭を下げて入社を許されたが、待っていたのは倉庫での荷造り作業の毎日だった。

中川政七(なかがわ・まさしち)氏
中川政七(なかがわ・まさしち)氏
中川政七商店会長。1974年奈良市生まれ。京都大学卒業後、富士通を経て、江戸時代創業の家業である中川政七商店に入社。工芸分野の卸主体だった事業をSPA(製造小売り)に転換。2008年、13代社長に就任。18年から会長を務める(写真=宮田 昌彦)

 「古臭い」「小規模」と思われがちな工芸の世界。私はそうした工芸品を取り扱う中川政七商店の13代目として、業界で初めてのSPA(製造小売り)を立ち上げ、今日では全国に59店を展開するまでに成長させました。当社は享保元年(1716年)に創業しました。この古く長い業歴のファミリービジネスにどうやって新風を吹き込んだか。それをお話ししたいと思います。

さまざまな分野の工芸品を扱う
さまざまな分野の工芸品を扱う

家業に無関心だった

 私が生まれ育ったのは本社のある奈良市ですが、会社に行った記憶はほとんどありません。また、先代の父は家で仕事の話をしないタイプ。経営者だと知っていましたが、私にとって家業は遠い存在でした。長男ですが、「会社を継げ」と言われた記憶はありません。父は縮小が続いていた工芸の大変さを知っていたのでしょう。そのおかげか、のびのびと子供時代を過ごせました。

 小学校ではサッカーに熱中していました。ポジションはゴールキーパー。必死に練習し、全国大会でベスト8になりました。キーパーの良いところはフィールドを俯瞰(ふかん)できること。中川政七商店のオフィスには間仕切りがほぼありません。社長時代に全体が見える職場にしたかったため、取っ払ったのです。

 1浪して京都大学法学部に進んでからは、弁護士を目指しました。正直な話をすると、仲のいい友人の父が弁護士だったから。人気のテレビドラマに弁護士が登場していたことも影響していました。しかし、そんな動機で合格できるはずもなく……。2年休学して挑戦しましたがそれ以上頑張る気になれませんでした。

 弁護士をあきらめて就職活動を始めたのですが苦戦の連続。当時は就職氷河期でした。1浪と2年休学も重荷になった。それでも「家業を継ぐ」という選択肢は浮かびませんでした。ソニー製品が好きだったこともあり、電機関連の企業を何社も受けました。そこで最初に内定をもらった富士通に決め、東京でのサラリーマン生活を始めたのです。

 最初の肩書はシステムエンジニア。ただ、業務内容はプロジェクトマネジャーに近く、トラブルを検知するシステムの販売を担当しました。入社後2年ほどして気づいたのは、大組織の大変さでした。課長に昇進するには約10年が必要で、活躍するまでに時間がかかり過ぎる。就職するときは「大きな会社のかっこいい名刺を持ちたい」とも思っていました。しかし、実際に働いてみた大企業は向いていなかった。私は「成果次第で大きな仕事を任せてもらえる中小企業が向いているのでは?」と考えるようになりました。

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