コンサルティング会社在職中に、家業の日本交通に関するニュースが目に留まった。心に浮かんだ小さな不安は、社長である父に聞いても解消されない。中から見ようと入社を決意した。時の首相による「不良債権処理なくして景気回復なし」という宣言の余波が近づいていた。
![川鍋一朗 [かわなべ・いちろう]氏](https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00157/030400002/p1.jpg?__scale=w:500,h:375&_sh=09c0dc0620)
日本交通の3代目として生まれた私は、幼い頃から「いつか自分が日本交通の社長になる」と思っていました。創業者である祖父はホームパーティーがあると私を「ウチの3代目です」と紹介していたので、いつの間にかその気になっていたのです。
大学卒業後は米国のビジネススクールに通って1997年にMBA(経営学修士号)を取得。その年に外資系コンサルティングのマッキンゼーに入社しました。私は当時27歳。祖父が創業したのが30歳だったので、自分も同じ年になるまでは外で修業しようと考えていました。
マッキンゼーでは分析スキルやロジカルな考え方を身に付け、後に多方面で活躍する同僚たちにも出会えました。ただ、振り返ると私はコンサルタントに向いていなかったと思います。最終的に自分のことではないと思うと、どこか興味が持てなかったのです。
当時のマッキンゼーは「アップ・オア・アウト」と呼ばれる、3年で昇進しないと去る風潮がありました。ちょうど3年に差し掛かろうとした時期に、「日本交通の子会社が投資ファンドを使ってMBO(経営陣が参加する買収)」と書かれた新聞記事を目にしました。後に経営状況の厳しさからくる資産売却だと知るのですが、当時は分かりませんでした。
父に聞いてみても「大丈夫だ」という答えが返ってくるばかり。「何かあるのではないか」という私の不安は拭えませんでした。それなら自分が会社に入って中から見るしかない。そんな思いで入社を決めました。
はびこる「緩い空気」
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この記事はシリーズ「日本交通・川鍋一朗会長の「不屈の路程」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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