「ガリバーインターナショナル」(現IDOM)の創業者として、中古車の流通に革新をもたらした。経営の第一線を退いた後にも超長距離マラソンに挑むなど、挑戦への意欲は尽きない。若かりし頃、商才を生かしてとんとん拍子に進んだ後に待っていたのは大きな落とし穴だった。

<span class="fontBold">羽鳥兼市[はとり・けんいち]氏</span><br>1940年福島県生まれ。59年に父が経営する羽鳥自動車工業に入社。66年に重機レンタルなどを手がける羽鳥総業を設立するも76年に倒産。同年、中古車販売の東京マイカー販売を立ち上げる。94年に買い取り専門のガリバーインターナショナル(現IDOM)を設立。2008年には息子2人を社長とする体制に移行。16年に名誉会長に就任。(写真=的野 弘路)
羽鳥兼市[はとり・けんいち]氏
1940年福島県生まれ。59年に父が経営する羽鳥自動車工業に入社。66年に重機レンタルなどを手がける羽鳥総業を設立するも76年に倒産。同年、中古車販売の東京マイカー販売を立ち上げる。94年に買い取り専門のガリバーインターナショナル(現IDOM)を設立。2008年には息子2人を社長とする体制に移行。16年に名誉会長に就任。(写真=的野 弘路)

 今年で82歳。インタビューなどでよく「今まで生きてきて何が一番つらかったですか」と質問されるのですが、そう聞かれると困ってしまうんです。実は一度もつらいと感じた経験がない。

 何せ「頑張った」と思ったことがないのです。頑張るとストレスがたまり、それを続けているとやがて走れなくなる日が来てしまいます。だから私は頑張らずに、目標を決めて、それに向かってただ無我夢中で走り続けてきました。

 目標を決めて挑むのは楽しいですよ。必要なのは覚悟だけです。挑戦するかしないかを決めたら、後は腹をくくればいい。その楽しさを若い人にも知ってもらいたい。せっかくの機会なので、私の人生を振り返ってお話ししましょう。

 私は1940年、福島県須賀川市で1男6女の家庭に生まれました。生家は江戸時代から続く理髪店です。客足が絶えず、いつもにぎわっている店でした。待合室には当時珍しかったテレビが置いてあり、雨天時は散髪後に自宅へクルマで送り届けるサービスもしていました。

 父は母と2人で理容師として働いていたのですが、後に「羽鳥自動車工業」を設立して再生タイヤ工場の経営を始めました。東京で仕事があると、父は私に学校を休ませて同行させました。仕事を見せることで事業を継いでほしかったのでしょうね。

 そんな父の影響もあったと思います。私の商売の原体験は小学校2年生に遡ります。野外授業で訪れた市場で、納豆が市場価格の半値で卸売りされていると知りました。「これはもうかる」と思った私は市場に通って交渉し、納豆を1本5円、20本単位で買い取りました。それを通学前に売ったら見事完売。次は40本仕入れてまた完売。さらに倍、倍と売る量を増やしていったら、通学前の時間だけではさばき切れなくなって放課後も売りに行きました。最後は近所の人から両親に「兼ちゃんに納豆売りをやめさせて……」と連絡が入ってしまって止められたのですが。

 当時の私には、納豆売りが商売だという意識はありませんでした。自分にとっては、行動することで物が倍々に増えていくゲームだったんですね。「どうすれば売れるか」を考えながら大人の心理を探っていた。

 よく買ってくれたのは置き屋の芸妓(げいこ)さんたちです。売れ残るとそこに行って、「あと6本残っているんですけど、これを買ってもらえないと家に帰れないんです」とべそをかく。そうすると「全部置いていきな」と買ってもらえる。ゲームとはいえ、嘘をついちゃマズいですよね(笑)。芸妓さんたちにはバレていたと思いますけど。

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