薩摩地方にしては珍しいみぞれまじりの曇天が数日続いたが、今朝はうってかわって澄み渡り、餌を探しに庭に下りてきたシジュウカラがマンサクの枝をついばみながら甲高い声で囀(さえず)っている。その傍では、もろ肌を脱いだ筋肉質の男が手ぬぐいを握りしめた手を力強く動かしている。まだ冷え切った外気の中で勢いよく擦り上げられた胸や腹はほのかに赤く染まり、頭からは湯気が立ち上らんばかりである。

 薩摩藩士得能良介(とくのうりょうすけ)の1日は、こうして起き抜けに縁側から庭に下りて、乾布摩擦を行うところから始まる。

 この習慣は良介の母吉子によって仕込まれたものである。

 吉子は幼少時に1人きりの兄を疱瘡(ほうそう)で失い、その後、父親も彼女の成人を待たずに肺患で他界した。さらに、跡継ぎのために頼み込んで養子縁組した入り婿も、吉子が待望の第1子を懐妊してあとふた月で出産というところで、疫病で早世するという不幸に見舞われている。その時点で得能家は身重の吉子とその母藤子の2人きりとなり、いよいよ家名断絶かと心細くなる中で元気な産声を上げたのが良介であった。

 このため吉子たちは、使用人たちにも一人息子のことを赤様とか若様ではなく旦那様と呼ばせるなど、ごく幼い頃から惣領としての意識を植え付けることに腐心してきた。だからといって甘やかすようなことはせず、むしろ得能家の男たちの轍を踏まぬよう、ひたすら頑健に育てようと人一倍厳しく心身を鍛えさせてきた。冬の早朝の乾布摩擦も、幼い頃の良介には怠け心に流れがちな辛い日課にほかならなかったが、吉子は毎朝欠かさず見張り続け、手を抜くことを一切許さなかった。

 その教えが沁(し)みついた良介は物心ついてこのかた、1日たりとも欠かした記憶がない。自宅にいる時はみぞれが降ろうと嵐が来ようと土間で身体を擦るし、主君に随行して江戸や京都に出張すれば宿泊先で行い、移動の船の中でさえ甲板の舳先(へさき)で海風に身体を晒(さら)した。その習慣は、祖母の藤子が危篤に陥り、2日後に老衰で永眠した先週も、考えるまでもなく当然のこととして続けられた。

 何十年も続けてきた自分なりの作法で無心に擦り続けると、寒さだけでなく悩みや迷いが頭からすっぽり抜けて、腹の奥底から体中に気のようなものが広がっていく。さすがにここ数日はうつろな思いに囚(とら)われてそこまでに至らなかったが、埋葬も無事済ませて一夜明けた今朝は、桜島を見晴らしながら日の出間もない光を浴びると新しい力が漲(みなぎ)るのを感じる。丹念に上半身を擦り終え、四股を踏み、あちこちの関節を動かしていると、縁側の脇にある老木の幹が目に入った。すでに葉をつけなくなって何年もたつので意識して眺めることもなかったが、いつしか枯れて朽ちていたことに気づく。

 (うちの婆さまも同じじゃのう)

 良介は胸の内で呟く。こんな風に自然の摂理に従い、苦しむこともなく枯れ果て、静かに命を全うするというのは、うらやましいばかりの去り方に思えた。