念願の大仕事である明治天皇の肖像画を描くこととなったキヨッソーネは、宮内大臣の見守る中、御簾の隙間から天皇をスケッチし、それを元に「御正装姿」を完成させる。その後も日本銀行券の製作などで休みなく働き続けた彼にも、ついに印刷局を去る時が来た。
明治24年7月、藤原鎌足の肖像を彫り込んだ百円札の原版完成を花道として、キヨッソーネはついに印刷局を去ることになった。
ここ数年、おおむね1年に1券種の肖像をたった一人で完成させていった。彼が紙幣彫刻師に求める技術水準は極めて高く、愛弟子に対しても妥協することは一切なかったからである。が、しかし──。
キヨッソーネは常に脅えていたのだ。
故国イタリアや修行先のドイツで名を成す道が閉ざされ、最後に辿り着いた日本だからこそ、もうあとがなかった。彼はとりわけ競争相手の出現を怖れていたのである。
お雇い外国人でもあり、キヨッソーネの存在は印刷局では唯一無二であったが、彼の意向ひとつで印刷局を追われた優れた才能は数知れない。この16年余、自らの技法や作風を脅かす表現方法を持つ者を徹底して排除し続けてきたのだ。上野精養軒で開かれた送別会で、そのことに気づいていた者はいたかどうか。
この送別会の席上、長年彫刻部長を務めた佐田清次がキヨッソーネにある提案を持ちかけた。彼の功労に報いるため、印刷局でも退職後の特別な待遇を用意していたのだ。
「いよいよ、宮内省からの用命のうち、残りの『御軍装姿』の制作に取りかかると伺っておりますが」
「はい。作業場が、ありません」
「新しい物件を探すのは骨が折れましょう。実は、作業場のことをご心配されていると聞き及びましたので、上に掛け合って特別に彫刻部の教師室を引き続き使用する許可を取りました。使い慣れた彫刻台もそのままお使いいただくことができます」
「それは、とても、助かります」
外国人の芸術家にとって、年老いて所属組織を離れて活動するのは容易ではない。常に身近にいた佐田の気遣いは有り難かった。
明治26年も年の瀬を迎えた頃、キヨッソーネが2年半の歳月を費やした「御軍装姿」の彫刻が完成し、印刷された。
「御軍装姿」はキヨッソーネにとって最後の、そして最大(76.7×51.1センチ)の彫刻画である。これだけの大きさの版面に彫刻刀で画線を1本ずつ刻み込んでいくだけで60歳を迎えた彼には骨が折れる。
そのうえ大量の印刷に耐えられるよう、銅板よりも固くて彫刻が難しい鋼板を用いた。彼はコンテ画の「御正装姿」も彫刻にしたい希望を抱いていたが、もはや気力も体力も残っていなかった。
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