前回までのあらすじ

紙幣の国産化に晩年をささげた印刷局長・得能良介は「成すべきことは成した」と言い残し永眠した。その4年後、明治天皇の肖像画を描いてほしいと宮内省から依頼されたキヨッソーネは、光栄に思いながらも「紙幣の肖像を拒絶したのになぜ……」と困惑する。

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 宮内大臣の土方久元は初対面のキヨッソーネに明治天皇の肖像画を依頼した。念願の仕事が舞い込んで来たにもかかわらず、キヨッソーネは即答がためらわれた。

 それならなぜ、政府紙幣の肖像は、陛下ではなく神功皇后だったのか──。

「……陛下は、写真が嫌い、ですか」

 高貴な人物は往々にしてデッサンが叶わない。撮影した写真から下絵を起こす。

「我々が悩んだのもそこだ。陛下には内緒で拝写するしかない。3日後、弥生社への行幸の際の食事時だ」

 朝陽閣への行幸で拝謁した天皇のご尊顔が思い出された。あふれる精悍さと飾らない人柄、包容力を持った眼光──キヨッソーネは一目でお人柄に魅せられたのだ。だまし討ちのようなことだけはしたくない。

 「陛下が、怒ると、どうなるのですか」

 「ただでは済まぬかもしれぬのう……だが、貴殿に一切迷惑はかけぬ。すべてはわしが命じたことであって、責任はわしが取る。心配はいらん」

 穏やかな口調だが、土方の目には厳しい覚悟が宿っていた。

「これも国のため、ひいては国家元首のためだ。これ以上先延ばしにすると貴殿の祖国にも礼を失することになるやもしれぬ。やってくれるな」

 3日後、キヨッソーネは御簾の隙間から、天皇の容貌と折々の表情を、時間の許す限り拝写した。これを下絵に「御正装姿」と「御軍装姿」の肖像画をコンテで描く。

 天皇が儀式に用いる最も格式の高い御正装は、お雇いフランス軍人の助言により、陸軍大将の正装とされていた。立襟のダブルボタンの上着にいくつもの勲章や飾緒や肩章を付け、サッシュと呼ばれる光沢のある帯を肩から襷がけする。

 御軍装は、一昨年に改正された陸軍の制服規則にもとづき、胸部に横向きの飾り紐が複数付けられた肋骨服と呼ばれる上着にズボン、乗馬靴という実務的な出で立ちである。右手には白手袋と軍帽、左手には軍刀を提げる。

 御正装の肖像画を制作するには、佩用(はいよう)する勲章や帽子、刀剣などを正確に描き込まなくてはならない。キヨッソーネが成瀬を連れて宮内省を訪ねると、幸いにも土方が省内にいた。さっそく本題に入る。成瀬が間に入って通訳した。