前回までのあらすじ

同郷の後輩である大蔵卿・松方正義への直談判が実り、得能の宿願だった工場積立金制度がついに認められた。大勢の部下を率いて宴会を催した得能は大きな達成感に包まれる。しかし病による衰弱は日に日に進み、最期の時は確実に近づいていた。

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 涼を含んだ爽やかな風が室内を通り抜けていく。彼岸が過ぎたこの時期は、祖国を懐かしく思い出させる。日本の夏の蒸し暑さには何年たっても馴染(なじ)めない。

 キヨッソーネは万感の思いを胸に、発行されたばかりの政府紙幣拾円札を眺めていた。壱円札、五円札に続く最後の券種である。いずれも肖像は神功皇后だが、すべて新たに彫り直した。壱円札と五円札の出来栄えに納得がいかなかったからだが、ようやく満足のいくものに仕上がった。

 壱円札の神功皇后は目鼻のあたりの彫りが深く日本人離れしていると言われた。五円札では目元をやさしく、拾円札では頬のあたりをふっくらさせることができた。彼にとって日本人女性とは菩薩のような容貌なのだ。そこに威厳と高貴さを合わせて表現したかった。

 銅板に彫った線は消せない。どれほど経験を積んでもイメージ通りに印刷されるのは万に一つの確率でしかない。

 祈るような気持ちで版面から用紙を剥がしていくと──。

 キヨッソーネに向かって神功皇后が艶然と微笑んでくれていた。頭の中に思い描いてきたイメージがついに試し刷りで現れた瞬間だった。

 神功皇后のデッサンのモデルとなった加藤秀子と、彼は一緒に暮らすようになっていた。しかし職場では秘している。得能が職場内恋愛による風紀紊乱を戒めていたため、交際自体を知られてはならなかったからだ。ましてやお雇い外国人の男性と日本人女性という組み合わせである。好意的には見てもらえない。故郷を追われた身である秀子も、あらぬ噂の種になるのを嫌がった。

 キヨッソーネは様々な思いのこもった拾円札を鞄にしまい込んだ。昼前だが退庁の支度にとりかかる。小旅行に行くという届を出していたが、これから横浜にいる秀子の出産に立ち会うのである。そこに成瀬が電報を持って駈け込んできた。

 「おめでとう、キヨッソーネさん。予定より早まって昨晩産気づき、今朝生まれたそうだ。男の子ですよ」

 成瀬は耳元に顔を近づけると声をひそめた。まわりで誰が聞いているかわからない。

 (おお、神よ)

 無言でうなずいたキヨッソーネの全身からは喜びがあふれていた。異国の地で50歳にして息子を得たのだ。この瞬間を何日も前から指折り数えてきた。自分の分身がこの世に存在する。ひざまずいて神に感謝の祈りを捧げた。

 「安産だったようで、母子ともに元気ですよ」

 成瀬もひざまずき、キヨッソーネを抱擁した。

 「ありがとうございます。出産に間に合わなかったのは残念ですが、元気な子が生まれて本当に良かった」

 キヨッソーネは成瀬の耳元に小声で返した。

 官舎で暮らせないキヨッソーネと加藤秀子は別宅を横浜に構えている。場所は元町と唐人町の境の前田橋のそば。外国人が住む大ぶりの洋館が集まる地域だが、こぢんまりとした和風建築の家である。

 横浜駅から2人を乗せた人力車が門の前に着くと、一刻も待っていられないキヨッソーネが成瀬を置いて家に駈け込んでいく。

 一輪挿しの花瓶に活けたりんどうが目に入った。出産直前まで主を迎える玄関を飾る秀子の心遣いが嬉しい。寝室へと続く廊下に掛けられた浮世絵や日本画はふたりで買い求めたものだ。モデルと彫刻師としての関係に物足りなくなった秀子とキヨッソーネは、職場の目を忍んで外で会うようになり、共通の好みが美術品や骨董品の店に向かわせた。