結核に体を蝕まれながらも、得能は印刷局を独立自営の事業体にするため、工場積立金制度の上申を続けた。拒絶してきた大蔵本省だったが、明治14年の政変で大蔵卿が郷里の後輩、松方正義に交代する。一縷の望みを抱き、得能は松方との面会に臨んだ。
明治15年9月。大蔵卿の松方が得能に面会を求めてきた。西南戦争の戦費調達のために濫発された不換紙幣回収のため、松方は中央銀行の創立を建議し、日本銀行条例が制定されたばかりである。
「卿は、日本銀行券を円滑に発行できるか大変気にしておられ、新たな券種を製造するにはどのくらいの期間を要するか、その際の制約条件や課題も合わせて印刷局に詳しく聞きたいとのことであります」
一川が大蔵本省から伝えられた面会目的を報告する。
「なるほど、わしらでないとわからぬからな。しかし、千載一遇の好機ではないか」
「本省の幹部連中は慌てております。面談中に閣下が工場積立金制度の直談判に及ぶことを危惧しておるようで、卿からお尋ねのある事以外は一切話題にしないよう、厳しく指示がありました」
「知ったことか。どうとでも適当に答えておけ」
そして迎えた松方との面会日。得能は朝早く庭に出て久しぶりに乾布摩擦で身を清めた。
これが最後の大仕事になるかもしれぬ──。
大蔵本省に出向き、控えの間で瞑目して待つ。
「得能さん、お待たせしましたな」
「ご無沙汰しておりました。ご説明の機会をいただき参上いたしました」
松方に招き入れられ、得能は畏まって挨拶した。大隈重信が大蔵卿時代に大蔵大輔に就いていたが、2年前に内務卿に転出したため、面会はそれ以来である。

松方と向き合う形で座った得能は、大蔵卿の部屋の雰囲気が一変したことに気づいた。話好きで来客も多かった大隈の部屋は、面会客が持参した全国各地の手土産であふれていた。いま目に入るのは必要最低限の調度品のみ。緊縮財政をもって鳴る松方らしい。
「さっそくですが、御下問のあった件につきましてご説明申し上げます」
これまでの国立銀行紙幣や政府紙幣の製造に要した期間、時間や手間のかかる工程、日程管理の注意点などをひとわたり御進講する。口を挟むことなく耳を傾けていた松方がようやく口を開いた。
「大雑把に見積もってひと券種あたり版面の製造に半年、印刷にざっと3、4か月といった感じですかな」
「はい。やはり版面の製造、とりわけお札の顔となる主模様の図柄を彫刻するのに時間がかかります。壱円、五円、拾円といった異なる券種に共通の図柄を用いれば、かなりの時間を節約することができます。前回の国立銀行券では裏面に恵比寿像を使いました。次回は大黒天をおもて面の主模様の候補に考えておりますが、こうした国民に広く知られた図柄であれば考証にかける時間を大幅に減らせます」
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