壱円札に続いて、用紙に初めて透かしを入れた政府紙幣五円札が完成した。一方、得能が大蔵本省に何度も上申している、工場積立金制度を要とする改革案は一向に認められる気配がない。いたずらに時が進み、病は徐々に得能の体を蝕んでいた。
「どげんしたか」
「どげんしたかじゃなかですよ、人の気も知らんと……きのうの夕方ここでひっくり返ってしもうて、それきり眠り続けるもんやから、心配しもした、まったく」
(そうか……眠っていたか)
妻の富樹子がうるさくまくしたてる声で、得能はようやく我に返った。
「お父様ずっと目を覚まさんかったから、近藤先生をお呼びして診てもろうたのよ──」
(なんだ清子も来ているのか)
「──血圧が急に下がったからやなかかて。目が覚めてからしっかり診察しましょうと言いやったそうよ」
「もう大丈夫じゃ。そげん大騒ぎする話じゃなか」

得能はかろうじて強がって見せたが、起き上がることができない。富樹子が乱れた布団を掛け直した。
「職場の方には連絡しておきましたから。先生のお話では、肺のほうは小康状態だけど、体力の衰えがだいぶ進んでいるんじゃなかかて」
話が大げさに伝わっていなければよいが。得能は気が重くなる。病人扱いされるのは真っ平だ。熱海での転地療養から東京に戻るや、いてもたってもいられず職場復帰したが、主治医からは少しでも心労をふやすことのないよう釘を刺されていた。富樹子は鹿児島に戻らず熱海からつきっきりである。
「お父様にはお肉や牛乳をたくさん摂って栄養をつけていただかんとね」
「余計な世話じゃ。わしは魚と野菜で十分じゃ」
娘の清子にずけずけ言われるとつい反論してしまう。気遣ってくれているのはわかっているが、得能は肉食がどうにも苦手である。食べたくないものを食べてまで長生きしたいとは思わない。
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