政府が緊縮財政を打ち出す中、得能良介は印刷局を独立自営できる事業体にしようと、工場積立金制度を上申する。柔軟な設備投資ができる資金を確保するための施策だが、前例のない改革を快く思わない大蔵本省の勢力から強い抵抗を受けていた。
「こんなことでは印刷局の経営など不可能だ。わしは辞める」
熱海での療養から帰京した翌日である。再三の印刷局改革案の上申に取り合わない大蔵本省に業を煮やした得能は、登庁するや一川を本省に向かわせた。ようやく一川が持ち帰った回答では、肝心要の工場積立金制度は一顧だにされていなかった。
得能は一川に吐き捨てると一気に辞職願を書き終え、職場を放り出して戻ってこなかった。局長不在の異常事態である。それでも本省からは何の音沙汰もない。このままでは印刷局が立ちゆかなくなる。日頃の得能の口ぶりから、本省で鍵を握っているのは国債局長の郷純造ではないか。一川は意を決し、郷に面会する算段をつけた。
「このたびはいろいろお騒がせして誠に申し訳ございません」
「まったくだ。おたくの局長殿は思いつきで突飛なことばかり言ってくるが、こちらもいちいちつき合うわけにはいかぬからな」
詫びを入れるのなら得能が来るのが筋だ。次席に頭を下げさせるようでは話を聞く気にもならない。
「厳しい財政状況は重々承知してございますが、得能局長も職を賭して意見具申しております。なにとぞ一刀両断にされるのではなく、せめて検討だけは引き続き行うといった、局長の顔も立てるご配慮をお願いできないものでしょうか」
「そもそも何のために顔を立てる必要があるのだ。意見が通らないのが不服で辞めたいと言っているのだろ。だったら辞めさせてやればいいじゃないか。こちらが辞めないでくれとお願いするような筋合いじゃない。違うかね」
得能率いる印刷局には内務卿の大久保利通の息がかかっている。誰もがそう思い、郷は気に食わないふるまいにも目をつぶってきた。しかし、大久保はもうこの世にはいないのだ。省内での立場も得能は下である。一川の顔色が失われていくのを、郷は薄ら笑いを浮かべて眺めている。
「うちの局長はああいうお人なものですから、素直に退かれるかどうか。更にご本省に迷惑をおかけするのではないかと心配している次第です」
工場建設認可の時のように、大蔵卿への直訴に及ぶ。暗に仄めかしただけだが、郷にはそれで十分だった。
「ふん、そんなやり方がいつまでも通用するか。佐野卿には、役所の作法もわきまえぬ輩にお会いいただく必要は毛頭ないと申し上げてあるわい」
脅しをかけたつもりかもしれぬが、お前たちの苦し紛れの戦法などお見通しだ。
「だいたいだな、ああいう行儀の悪い上司を監視して抑えつけるのが次席たる君の仕事じゃないか。あの爺さんをおとなしく辞めさせれば後釜は君になるんだろ。いつまでもあんなおいぼれに操を立ててないで、自分の身の処し方をよく考えたほうがいいぞ」
この小役人には得能の意見具申の真意などとうていわかるわけがない。温厚な一川が顔を真っ赤にしている。
「お言葉ですが、得能局長を辞めさせる時は、小生はじめ印刷局幹部一同、辞表を提出する覚悟であります」
捨て台詞を吐いて席を立ったが、本省を出た後、すぐに激しい無力感に襲われた。大蔵卿への直訴が叶わないのであれば、もはやなすすべはない。得能に恥をしのんで辞職願を撤回してもらわねば。
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