政府紙幣に描く初めての肖像画・神功皇后のイメージをつかめないでいたキヨッソーネはある日、抄紙工場で紙漉き職人の加藤秀子と出逢う。求める「日本女性の美」を秀子の中に見出したキヨッソーネは必死になって口説き、モデルになることを承諾させた。
「今、父が生きていたらはたして褒めてくれるでしょうか」
「今は、もう、いないのですか」
無言で頷いた加藤秀子はしばらく迷う素振りを見せていたが、キヨッソーネから目をそらしてぽつりぽつりと語り始めた。
「3年前、紙幣用紙の紙漉きのためにお国から招かれて、うちの一門が上京しました。父は紙幣寮の職員となり、お国のために一生懸命働き、寮内に紙漉き技術を普及させました。一門が紙幣寮に伝えた技術は、1500年前に村に現れた女神が教えた門外不出の秘法だったのです。田畑が少なく生活に苦しむ民がなりわいを立てられるように、と」
加藤一門は秘法を国に売り渡した不届き者として村の人たちから非難を浴び、故郷に帰れなくなってしまった。秀子の父は祖父の死に目に会えず、秀子も村では紙漉きの仕事ができなくなり、父を頼って上京した。
「頑固な父も祖父の臨終に立ち会えなかったのは、さぞかし辛かったと思います。そのあと、父も急に体調を崩して……」
祖父のあとを追うように亡くなった──。
「父の遺骨はいまだに故郷の墓に埋めることができていないんです」
秀子がすべてを語ったあと、作業服の袖口でそっと目元をおさえるのをキヨッソーネは見逃さなかった。故国を離れこの紙幣局で身を立てるしかない自分と同じ根なし草なのだ。呆然と遠くを見ているキヨッソーネの横顔に、成瀬がフランス語で問いかけた。自分のことをほとんど語らない彼だが、秀子の境遇が彼に故郷の家族を思い出させたのではないか。
「やはり、一度……帰国した方が良くはないですか」
「大丈夫です。その必要はありません」
キヨッソーネは遠くを見たまま、きっぱりと言い切った。フランス語を解さない秀子は2人を黙って見守っている。
数日前のことである。キヨッソーネは故郷アレンツァーノの家族から手紙を受け取っていた。母親の持病が悪化し危篤状態にあると書かれていた。手紙の内容を成瀬は知らないが、父親が祖父の死に目に会えなかったと秀子が語った時、彼の顔が苦悩に歪んだ一瞬を見逃さなかった。
(あの手紙は、家族からの何かよからぬ報(しら)せだったのではないか)
「得能局長はかつて御祖母様への孝行を尽くすため、維新政府への任官の誘いを断って鹿児島に帰った人です。話せばわかっていただけると思いますよ」
「ありがとうございます。お心遣いは無用です」
お札はもとより切手や公債証書などの原版制作も手掛け、多忙を極めている。国産第一号となる水兵札は忸怩(じくじ)たる思いで友人の助けを借りて間に合わせるふがいなさだった。新しい政府紙幣の肖像彫刻はすべて自分の手でやりとげたい。作業を放り出して一時帰国するなど、今は母親が危篤であろうと、キヨッソーネには考えられない。
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