新たな政府紙幣に初めて採用する肖像画は、神功皇后に決まった。高貴で品格があり、かつ勇敢な日本女性のイメージを求めて、キヨッソーネは苦悩する。女工をデッサンするなど試行錯誤を続けていたある日、訪ねた抄紙工場に思いもよらない出逢いが待っていた。
国立銀行券の新五円札印刷直前になって、用紙に繊維の毛羽立ちが見つかった。細密な図柄を鮮明に印刷する妨げとなるため、得能が抄紙部長の中村祐興に起毛防止策を講じるよう命じ、キヨッソーネも実際に検分に訪れていた。
手漉きの職工の作業部屋は男女で分けられている。一行は女工ばかりの部屋に入った。紙料(パルプ)を水に混ぜる漉き舟と呼ばれる水槽がずらりと並び、数十人はいると思われる抄き手たちが脇目もふらず簀桁(すげた)を揺らしている。
「どうですか、うまくいきそうですか」
キヨッソーネが中村に訊ねた。
「流し抄きから溜め抄きに変えてみたんですが、印刷した際に毛羽立つ枚数がかなり減りました」
「職工は、すぐに慣れますか、新しい抄き方に」
紙漉きの手さばきは職人技の世界である。一朝一夕に変更できるものでないことは、キヨッソーネが一番よくわかっている。
「皆が皆、すぐにというわけにはいきませんが、彼女あたりを指導役に据えればなんとかなるような気がしています」

中村は部屋の中ほどを手で示す。ひとりの女工が簀桁をリズミカルに水面から潜らせ、紙料を掬(すく)い込んでいるところだった。きびきびとして無駄のない仕草から職人としての熟練ぶりがうかがえる。
「職場の女工たちとはあまり積極的に交わらないようですが、別に仲が悪いわけではなく、教わりにいけば丁寧に指導してくれて、教え方も上手だと評判です」
中村は周りに聞かれないよう小声でささやくが、成瀬は通訳を諦めた。
彼女の流れるような一連の動作にキヨッソーネが目を奪われていて、何も聞こえていないようだったからだ。たしかに所作がここにいる誰よりも美しい。ひとめで腕前がわかったのだろう。成瀬がキヨッソーネのはやる気持ちを代弁した。
「少し彼女に話を聞いてもかまいませんか」
「もちろんです。名前は加藤秀子といいます。まだ若いですが紙漉きの腕は男も含めて1、2番じゃないですかね」
中村は漉き舟に向かって進みながら、彼女の身の上を紹介した。
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