前回までのあらすじ

 西南戦争の軍費を賄うため紙幣の増産に追われる中、国産第一号となる国立銀行紙幣、通称「水兵札」が完成した。予想を超える仕上がりに一同が感嘆する中、西郷隆盛自決の報が入る。郷里の盟友の死に、得能良介は周囲の目もはばからず慟哭した。

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 明治10年11月17日。明治天皇が紙幣局の工場である朝陽閣に行幸した。

 午前9時前。晩秋の空は雲ひとつない。天皇を乗せた馬車が姿を現すと、工場通用門付近に整列した陸軍楽隊が舞曲「ギャロップ」を奏で始めた。

 旭日の章旗を掲げた表門の外では得能と次席の一川研三、三席の藤島正健が待ち構える。いずれも天皇の裁可を経て任命される奏任官である。表門では3人が車中の天皇に向かい敬礼したのを合図に、海軍楽隊が君が代を演奏し始めた。

 工場玄関では、奉迎する大蔵卿の大隈重信と宮内省幹部が馬車を降りた天皇に敬礼する。天皇は大隈の案内で赤絨毯を敷き詰めた中央階段を上がり、2階の休息所に入った。

 この日供奉(ぐぶ)したのは皇族から有栖川宮幟仁親王や東伏見宮依仁親王ら、政府からは三条実美太政大臣、岩倉具視右大臣に加え、大久保利通内務卿、大木喬任司法卿ら各省最高幹部である。東京府知事も加わり、随行の者を含めると総勢100名あまりであった。

 (失態は絶対に許されない)

 行幸を奉迎する責任者を任された得能は、ひと月以上かけて予行演習を繰り返してきた。

 茶菓の奉献のあと、得能、一川、藤島とキヨッソーネが拝謁を許された。ご尊顔を拝した4人は深く頭を垂れて一礼。緊張で畏まる奏任官3人とは対照的に、キヨッソーネはこの機会を逃すまいと、天皇の顔貌から服装、佇まいに至るまでお辞儀の姿勢のまま目に焼き付ける。決して許されない行いだが、天皇を前にして、とがめる者は誰一人としていない。

 「このように立派な工場ができたのは喜ばしいことであるな」

 頭を垂れたままの4人に、天皇が直々に言葉をかけた。

 「まことにありがたきお言葉に存じます。陛下、さらには政府関係者のご理解をいただき、欧米に引けをとらない製造設備を持つことができましたことに、心より御礼申し上げます」

 頭を心持ち上げて前傾姿勢となった得能が謝意を述べ、4人はふたたび深く頭を垂れた。

 「その後、事業は順調に進んでおるのか」

 1年半前の明治9年4月のこと。桜の名所である飛鳥山への行幸の際、渋沢が設立した王子の抄紙会社と、隣接地に竣工した紙幣寮の抄紙工場を、天皇は訪問していた。抄紙工場は操業開始直後の試験抄造段階であったが、鳥の子紙、雁皮紙、上美濃紙、奉書紙などを献上した。天皇からはお褒めの言葉と酒肴料を賜り、翌月には皇太后と皇后も同じ行程で行啓される慶事となった。