ビュラン彫刻は芸術作品に用いられる技法である。長年の修業を要するだけに簡単に真似はできない。これも偽造防止には有効だろう。

 「第3に、凹版と凸版の重ね刷りで、双方の持ち味を生かした印刷ができます。これまでの印紙や切手などの版は凸版で、1、2の例を除いては一度刷りでした。凸版同士の刷り合わせだけでも相当高度な技術です。版式の異なる凹版印刷を加えるには、版面、印刷、製紙の技術がすべて高精度で揃っていなければなりません」

 ここが重要と、キヨッソーネは腕や上半身にまで力を込めて思いのたけを述べ立てた。

 凹版の版面を印刷する場合、版面全体にインキを付け、彫り込んだ画線以外の版面に付いたインキを拭き取った上で紙に転写する。この手間のかかる工程を紙幣印刷で機械化する。ドイツから輸入した最新鋭の紙幣製造設備があってこそ可能になるという。

 「そうか、ついに我々の工場でも……」

 得能が手元の券面をなめるように眺め始めた。印刷の刷り合わせの難しさは、現場の職工から何度聞かされてきたことか。

 刷版部長が胸を張っている。挙手して発言を求めた。

 「印刷機械を操作する職工たちの技量は日に日に向上しており、この校正刷りでおわかりの通り、寸分も狂わない刷り合わせが実現しています」

 「うむ、見事なものだ」

 紙はその日の温度や湿度によって伸縮する。凹版印刷の場合、インキを紙に転写させるときに強圧で版面に押しつけるため、紙の歪みが生じやすい。手元にある見本は、とても何度も重ね刷りしたとは思えない刷り上がりである。キヨッソーネの説明が終わると、幹部たちがそれぞれの持ち場の成果を披瀝しながら質疑応答を重ねていった。

 「我々の残された課題は用紙の抄造でありました。様々な原料を精選し、薬品の配合や漉き方の研究を進めた結果、輸入紙幣の裂けやすいという欠点を克服できました」

 「ちなみに原料は何を使うことにしたのですか」

 「今回は雁皮(がんぴ)を7割、三椏(みつまた)を3割としていますが、三椏は人工栽培に適しているので、将来的にはもっと増やしていくべきと考えます」

 「明治通宝の用紙はインキの定着が悪く、薬品によって変色するという問題がありました。今回の紙は大丈夫ですか」

 「抄造方法を手漉きとすることでインキの浸染も良くなりました。ワニスの配合についてはなお研究を続けます」

 幹部たちの質疑応答を聞きながら、得能は言いようのない達成感を噛み締めていた。

 本格的な肖像彫刻の採用には至っていない。欧米各国の水準でみるとまだ過渡的な段階ではある。壱円札の恵比寿像を手がけられなかったキヨッソーネも、芸術的な完成度では満足していないようだ。しかし、そうした課題は次に控える新しい政府紙幣で追求すればいい。国産紙幣第一号としては上々の出来栄えだ。

 記念すべき校正刷りを見つめながら感慨に浸る得能のもとに使いの者が小走りに近づいてきて、折りたたんだ紙を渡した。広げてみると──。

 西南戦争の賊軍の将である西郷隆盛自決の報が記されていた。

 忌まわしい文言から目を背けようとするが、釘付けになって離れない。心臓の鼓動が激しくなり、紙を持つ両手が震える。

 戦況の推移は逐一伝わってきており、いつかこうなるのではと想像しないではなかったが、西郷の死が現実となったいま、まったく予想しなかった衝撃に襲われている。陣頭指揮を執って製造した紙幣が盟友を自決に追い込んだ。その事実に得能は打ちのめされている。

 薩摩での交友の記憶の数々が脳裏に蘇(よみがえ)り、部下たちの見ている前で嗚咽(おえつ)をこらえられない。刷り上がったばかりの壱円札が大粒の涙で濡れていた。

(続)

(画=永島壮矢)

日経ビジネス2022年5月16日号 66~69ページより目次

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