前回までのあらすじ

 娘の清子とその夫の西郷従道、妻の富樹子を完成間近の紙幣寮印刷工場に案内した紙幣頭・得能良介は、対立する2人の盟友、大久保と西郷につかの間、思いをめぐらせた。朝陽閣と称される新工場が稼働し、いよいよ新政府紙幣づくりが本格始動する。

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 明治9年10月10日、大手町の新工場が完成したが、得能は落成を祝う式典一切を取り止めた。竣工から3週間が経ったある日のこと──。

 「彫刻、刷版、製肉、調査。この4局長を呼べ」

 朝から寮頭室で腕を組みじっと考え込んでいた得能が、顔を上げると付きの者に命じた。ほどなく駆けつけた4人が揃うと、得能が立ち上がってひとりひとりの顔をのぞき込むように見つめた。

 「諸君らの尽力により機械設備の搬入や試運転が無事終わり、新工場として本格稼働を開始できたことに感謝したい。紙幣製造の機械と技術はドイツから導入し、工場運営の要である経理と人事管理にかかる諸制度を刷新してきた。ここに紙幣国産化の体制が整ったわけである」

 国事多難の折り、新工場には工事が進行する段階からさまざまな批判が浴びせられた。完成後も誤解による非難や讒言(ざんげん)が渦巻いている。この2年半、紙幣国産化のために精魂を注ぎ込んできたのは得能も職員たちも同じである。落成を祝えないことへの落胆ぶりは見ていられないほどだった。今度はいったい何を命じられるのかと直立不動でかしこまっていた4人だが、得能の言葉に感じ入り、彫刻局長の佐田などは誇らしげに胸を張っている。

 「そこで今こそ、紙幣寮総員の決意を結集すべき時と考える。我々の抱負や意思表明を誓書にまとめて署名血判することとしよう」

 異論があろうはずはない。頬を紅潮させる4人を見てうなずいた得能は、おごそかに筆を執った。

 幹部が互いに兄弟の約束を結び、同心協力して事にあたることで工場の名声を海外に轟(とどろ)かすべし──。

 こう誓いの文言を締めくくり、文末に署名した。指先を小刀で切って血判を捺(お)す。

 「閣下のお考えを拝聴し、まことに感に堪えません。不肖ではありますが、当職も彫刻局長として粉骨砕身、工場に奉務いたすことを終生の誓いとして立てたいと存じます」

 佐田が声を張り上げて口火を切ると、残る3人もそれぞれの胸に秘める決意を誓い合い、署名血判していく。誓書に印された鮮明な血汐を一心に目に焼き付けながら。