前回までのあらすじ

 明治8年1月、お雇い外国人の彫刻技術者、キヨッソーネが来日した。休む間もなく仕事に取り組む真摯な姿勢は、周囲の日本人たちに感銘を与えた。紙幣国産化へ意を強くした紙幣頭・得能良介だったが、その前に、思いもよらない課題が立ちはだかる。

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 昼下がりになると雪がちらつき始めた。薩摩の温暖な気候で育った得能は寒さが苦手である。外套の襟元をかき合わせながら門をくぐると、門番が慌てて立ち上がり敬礼した。ふだんは活気のある紙幣寮も休業日で静まりかえり、薪(まき)ストーブの火が消えたあとの建物はしんしんと冷え込んでいる。

 得能は歩ける距離にある官舎に住んでいることもあって、休日でも出勤することがままあった。この日も、前日に部下から受けた業務報告を思い返しているうちに、経理帳票にもう一度あたってみようと思い立ったのだ。

 内部の廊下を進み作業場の横を通りかかった時、誰もいないはずの部屋から、キヨッソーネと通訳の成瀬の声が交互に聞こえてきた。戸口の隙間から中を窺(うかが)うと、ランプの灯(とも)る薄暗い室内で、彫刻局の職工たち7、8人が、ドイツのドンドルフ社から輸入したばかりの版面製造設備を取り囲んでいる。得能は中に声をかけようかと考えたが、彼らの静かな熱気に気圧(けお)され、邪魔しない方がいいかと思い直した。

 「……クラッチュ版を作る際に一番注意しなくてはならない……」

 「……熔かした鉛合金に向かって……原版を落下させる……垂直に……」

 「……垂直になっていないと……原版と鉛の間に……空気が残る……」

 「……複製した鉛版の表面が仕上がらない……滑らかに仕上がらない……」

 どうやらキヨッソーネが溶融槽での作業を説明しているようだ。

 クラッチュ版とは、彫刻した原版を複製した鉛合金の型版のことである。彫刻したお札の原版を溶融槽の中に入れると鉛合金が付着する。その原版を引き上げて付着した鉛合金を剥がすと、鉛合金についた彫刻画線は原版の凹から凸になるため、彫刻の正確な複製になる──キヨッソーネは原版を溶融槽にどのように落としていくかを実際にやってみせている。職工たちも実際に溶融槽を覗き込み、キヨッソーネのやり方を真似ていく。次第に講義は白熱し、職工たちから細かい質問が飛ぶようになる。

 「その熔かした合金には鉛のほかに何を混ぜているのですか?」

 「アンチモンと錫(すず)……ビスマスという金属……融点を下げるため……を混ぜています」

 成瀬に化学の素養があるわけではなく、質疑応答を訥々(とつとつ)としか通訳できない。それぞれの設備や機械の仕組みはもとより作業で特に注意しなければならないことを学び、実地で試してみるとなると、職工たちは時間を気にせずにすむ休日をあてるしかない。キヨッソーネも休日返上で、職工たちの求めに応じているのだろう。

 お雇い外国人の中には、異国でひと旗あげようと目論む野心家や人格的に問題を抱えた者もいた。たとえば、貨幣鋳造機関である造幣寮に招聘されたトーマス・キンドル。傲慢、無礼が甚だしく、性格の粗暴さも相まって、職員から「ミスター・サンダー(雷)」と呼ばれていた。お雇い外国人を迎えることに戦々恐々としていた紙幣寮の幹部たちだが、得能も含めキヨッソーネには頭が下がる思いだった。