前回までのあらすじ

 大隈重信大蔵卿と大久保利通内務卿のトップ会談によって、難航していた紙幣寮の新工場建設についに裁可が下った。建設開始に向けた準備が進む明治8年1月、紙幣の彫刻技術者として招聘したイタリア人、キヨッソーネが横浜港に降り立った。

前回を読むには、こちらをクリックしてください

 キヨッソーネの通訳をつとめる成瀬常一が学んだ横浜仏語伝習所は、幕臣たちが最新技術の指導を受けられるよう通訳を養成する目的で設立された。幕末に海防の必要に迫られた徳川幕府は開国後、軍事力強化のためにフランス政府の協力を得て横須賀製鉄所(造船所)の建設に着手したからだ。

 横浜仏語伝習所は、やがて通訳者というよりも軍の士官候補生の養成を目指した教育機関となり、授業科目はフランス語にとどまらず、地理・歴史・数学・英語・馬術などにまで及んでいた。

 そこを優秀な成績で卒業した成瀬は維新後、学友たちのように留学するか、外交官の道にとも考えていたが、病気がちだった父親が先行き長くない状態となり、海外に渡るか否かためらっているうちに、紙幣寮から通訳者としての誘いを受けた。得能との面談では、キヨッソーネという人物ととことんつきあってくれと迫られ、国が招聘するほどの重要人物と心を通わせる任務であることを意気に感じ、引き受けることを決めていた。

 横浜港で成瀬とともにキヨッソーネを出迎えた紙幣寮工場長の矢嶋作郎は、フランクフルトのドンドルフ社の工場に監査役として派遣されていたため、すでに面識がある。黙々と仕事に打ち込む姿が記憶に残っており、どちらかというと近寄りにくい職人気質の印象が強かった。


 横浜港に出迎えに来た矢嶋は、組織として礼を尽くすべく紋付の羽織袴(はかま)姿。成瀬はフロックコートに蝶ネクタイ、胸ポケットからはハンカチーフがのぞく洋装である。キヨッソーネは出で立ちがあまりに違う2人をまじまじと見つめる。

 (なるほど、ある程度聞いてはいたが、こうした新旧や和洋が混ざり合っているのが、自分がこれから暮らす国なのか)

 「さあ、参りましょう。荷物を、お持ちしますよ」

 「いや、大丈夫。自分でやります」

 矢嶋の差し出した手を、キヨッソーネは押し返す。親切はうれしいが、自分のことは自分でやらないと落ち着かない。

 「どうか遠慮なさらずに。それから、異国の地で、慣れぬことや、不思議に感じられることも、多いでしょうが、何なりと、おっしゃってください」

 「いえ、その国に、住むのであれば、その国の、習慣に従うことは、当然のことです」

 成瀬の通訳のせいか、交わす言葉は堅苦しいのだが、キヨッソーネの2人に向ける柔和な表情に、矢嶋の緊張が和らいでくる。2年ぶりに再会したキヨッソーネからは、早く日本になじもうという気遣いが感じられた。